大分/国東半島・宇佐八幡をめぐる
                              宇佐八幡宮・御神体の八社巡行ルートを走る90km
 ピックアップ 走る自転車コースリポート--大分/国東半島・宇佐八幡-御神体・薦枕巡行ルート

 ■薦枕巡行八社めぐりコース。

御神体の巡行行事の行幸会は平安時代の記録が
なく、鎌倉時代に9回、室町時代でも9回と270年間
で記録に現れるものが18回でしかない。
理由は運営が大規模で、なかなか実施が難しかっ
たのだろうといわれている。
江戸時代になるとただ一度のみの実施で、明治以
後戦前の実施はなかった。戦後、昭和46年に略儀
として神輿でなく自動車を使用して執行されている
。江戸時代から355年をかぞえていた。

昭和56年に大分県教育委員会が[歴史の道・行幸
会調査報告書]を行幸会道として発行してある。
この報告書をいただき、行幸会の道を掲載してあ
る。

報告書から、調査時点ですでに消えうせた古道が
指摘されており、古代の祭礼を忠実にたどること
はできなくなっている。
ただこの道をトレースした感想では、この今の平野
が干潟であり、集落はその少し高い土地に開かれ
たものであることが良くわかる。またその集落のそ
ばには川がながれ、また必ずといっていいほど、
清水の井戸が遺されていて、ここに千数百年昔に
この土地に定住した人々の生業や祭祀を感じるこ
ともあった。
今の宇佐八幡宮になるまで、この集落を転々と移
動した八幡神の足跡といえる八社が朽ち果てはじ
めてはあるが、今あることに大きな感慨があった。
 ■全コース標高差

□コースレポート
国東は今は国の東と書かれるが,古くは国崎であったという。大和からみれば九州は西の端になり
関門海峡と豊後水道にある豊の国がこの国境になっていたというのである。

この豊の国にいた大神比儀が御許山(オモトサン)山麓の菱形池で幼児として出現した八幡神の
詫宣をきき,また同様にここにいた辛島乙目は宇佐菱形山の海辺で八幡神の託宣をきく。
その後,駅館川のほとりに鷹として出現した八幡神を鎮座させるため,宮柱をたて,最初の
八幡社になる鷹居社を造る。という神話がある。

8世紀初頭に鹿児島で隼人の反乱がおきる。大和朝廷は大隈半島に植民地をつくるために,この
豊の国の住人を入植させる。このことがかえって隼人との軋轢になり,大規模な武装蜂起がおきる。
入植地の辛国城は攻撃の的となる。大和朝廷も大伴旅人を将軍とする軍隊をおくるが,豊の国から
も救援隊が鹿児島にはいる。この救援隊の兵士たちは,薦枕を御神体として神輿にのせ,
辛島スグリハズメがこれを先導している。
いまの世界とあまりかわらない事件がおこっていた。

この隼人の武装蜂起の鎮圧を命ぜられた豊の国の兵士たちの安全のために,宇佐八幡宮の神官の
大神諸男が八幡神の託宣をうけて,野中の宝池に向かった。そのには宇佐池守という300歳になる
老人が池のなかから顔をだして「大貞や 三角の池の真薦草 なにを縁に,天胎(ハラ)み生むらん」
といったという。池の不思議さに大神諸男は一心にいのっていると,「我 薦を枕として守護の誓い
をした。凶賊を降伏させることができる」という声がきこえた。そこで薦の枕をつくったそうだ。
よくわからない話だが,神様を移動させて戦地におもむくのに,神様には移動中は枕をして寝ていて
もらおう。ってことなんだろか。

八幡神は出張できる神様のようだ。このフットワークのよさが全国に八幡神を広げることになったのだろう。

この起源の話のためか?薦が三角池から刈り取られて,宇佐八幡宮で枕にされると,4日をかけて
8社を巡行する。その行程に鷹居社もとうぜんはいっている。
日程は,7月初午の日に本宮から薦社にいって,薦を刈り取り,下宮で枕に17日かけてつくる。
新しい枕が本宮に入れられると,古い枕は下ろされて,来縄郷,田染郷,田原別府をへて豊予水道
の奈多宮て移る。ちょうど国東半島の西斜面を巡行してゆく。奈多宮で沖の厳島という小島から
海中に流される。竜宮城に返すという神事がおこなわれる。

11月にはいって,初午の日に薦枕は豊後高田市の田笛社にゆく。もどってきて八幡宮の西の鷹居瀬社
にはいりここで一泊。翌日郷瀬社に向かい,次に酒井泉社,その北の乙梼ミ,そして西へいって
大根川社へ。ここから巡行にもってきている鉾のみが薦社へ。その日は郷瀬社にもどって一泊。
翌日はずっと南の安心院町の妻垣社へ。ここから東,山香町の辛川社へ鉾のみ巡行。薦枕は妻垣社
で一泊。翌日小山田社を経由,宇佐八幡宮に帰還となる。

いろいろな解釈がこの薦枕の巡行にはあるようだけど,神様が宿泊するっておもしろい。

コースを自転車で回ってみるってのいかが!でしょうか。一日ではどうだろうか?
 宇佐八幡から東・田笛社
鎌倉時代に田笛社、鎮無社と記録にあって、行幸
会には仮殿を造営していた。
今の境内の東南、と前方に古墳があり、周辺にも
古代の遺跡がのこっている。
境内裏に古井戸がありこれは湧く水であったという
宇佐神宮周辺
鷹居社は郡瀬社から八幡神は鷹となって飛来し
荒ぶる神になった。そのため辛島勝乙目が沈静せ
しめんがために、宮柱をたて5年祈祷した。
郡瀬社は川の古代の渡し場にある社で江戸時代
の絵図には松と杉におおわれ、交通の要衝と思わ
れる。

小山田社ここから今の八幡宮に八幡神がうつっ
ている。この宮の山すそに泉がわきでており、そば
に四つの池がある。
乙梼ミ
乙梼ミ境内に石棺があって、ここにも湧水がある

泉社は八幡神がここの泉で洗浴したという。

大根川社

大根川社はここで八幡神が大根を食べたことに
よるという。ウソーじゃない。

妻垣社/上・下宮
妻垣社は上宮と下宮から構成されており、上宮は
石と玉垣で、下宮は社殿がある。この二つは向き
合う形式で、古社の鎮座形式の典型だという。
参道が山麓にかかる場所には湧水がでている。
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