走る自転車コース 宮本常一を走る --周防大島(山口)-- コース1 詳細ページ
 
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 コースリポート
 
 周防大島の一番古くからの記録をもつ屋代の集落を走り,島の南の沖浦の集落をたずねる。
 約40kmの行程だけど,けっこう屋代は登りコースになっており,
 出発地点の小松で別けて日程を組みゆっくりと走るのも初めてのサイクリングでは走るにはいいかな。
 途中の役場横にあるハワイ移民の資料館をこの方法だとたずねることもできる。この島の在り様がつたわってくる。
 大畠の大橋を渡って信号のある交差点にある地下道で右に入る。車道にでて,下りを終えてはじめての信号のある分岐を左の旧道に。
 ここをスタート地点としてコースガイドしている。
 この小松は高麗津だろうといわれ,上代には朝鮮半島との交流をうかがわせる。
 ここに対岸の大畠との間に旧国鉄のフェリーが橋ができるまで通っていた。いまもここに島を走るバスのターミナルがある。
 今はもうフェリーもないようだ。ここにバスセンターって不思議ではあるが,住人には自然なのだろうか。
 いまもある食堂は商店が海につきでた桟橋にそって開いている。のどかな景色だ。
 古い商店街はそのにぎわいを失ってしまったけど,落着いた住宅地となっている。喫茶店と食事のとれる店も2軒ほどある。
 そばの商船学校の先生たちと昼食を同席してとったことがあった。地元の人がお客のお店はあとでしまったってことがない。
 商船学校といっても女子高校生もいて,彼女等に,どうして?ってたずねたら情報処理の課程もあって,
 船員さんの要請課程だけではないとのこと。ここにも時代の変化があるようだ。ほとんどの生徒さんは本土側からの通学だときいた。
 江戸時代毛利藩が久賀に代官所をおいた。その代官所が幕末の長州戦争で焼け,屋代にうつされた。
 明治になって郡役所を屋代としたが,のちに島中央の久賀が便利だと久賀に移された際,
 屋代,小松,沖浦の各集落がこぞって反対し暴動までおきそうになり,海員学校を屋代におくことになりとりあえず騒ぎがおさまったという。
 そんないきさつがこの学校にはあったようだ。

 この旧道に志駄岸八幡宮がある。おおきな境内はきれいに掃除されて静かだ。正面の賽銭箱に橘の紋章がおおきくかきこんである。
 拝殿の正面には八幡神のマークの巴がある。この二つの組み合わせは京都・石清水八幡と同じ紋章になる。
 1184年3月島の住人はおびただしい船が白旗をたてて下ってゆくのを見ている。源義経がひきいる水軍だった。
 義経はこの神社に参拝して檀ノ浦にむかったという伝説がのこっている。3月24日の檀ノ浦決戦の数日前であった。
 この神社の由来はいろいろあるようだ。その一つ。周防大島の対岸に国東半島がある。
 その西の付根に宇佐八幡神社があって,これが八幡神の総本家だけど,この八幡神が京都に863年に勧請され石清水八幡となっている。
 その石清水八幡からここ志駄岸八幡は勧請されている。国東半島に伊美という港町がある。
 ここにある伊美八幡神社は石清水八幡から勧請されている。すぐ隣が宇佐になる。
 神様が国東からでたり帰ったり。
 もう一つの由来は志駄岸八幡には小松の沖が夜輝いていてそれを調べると,シダに巻かれて漂った神様をみつけ,
 それを丘に安置したという伝説もある。
 九州に設楽神・シダラシンがおられその神は10世紀初頭に京都・石清水八幡に参るというお告げに
 数万の男女がおどりながらしたがって大騒ぎになったという話があってシダラとは両手をあげて踊る様をいうことだという。
 屋島の集落には神楽があったというから,神社の名はそんな中世の楽しい話を連想してしまう。

 神社の神様を置き換えるってことはけっこうおこなわれていたようで,新しい神様をお迎えすると古い神様が隣にうつって祭られるってことになる。 お客様が上座になるってことなんだろう。
 海からあがってきた渡来の神様ってエビスさんってことが多い様子だけど,ここで置き換えがあったってことは記録にはないが。
 これからむかう屋代のダム湖畔から南海岸に山越えする大峠という地名が古い地図にはある。
 今この道はない様子だけどこの峠に最初八幡神が置かれた記録があって,そののち今の志駄岸八幡神社に移転したともいう。
 この島には大きな八幡神社が6つあるけど,そのうち3つに神様が海からきたという伝説がある。
 時代によってその祭られる神様も替わるようだけど,海からやってきた神様の神社はこの土地を最初に開いた人々の記憶のようで,
 天上から降臨する神様よりも,身近でリアルでひかれてしまう。
 海からあがってくる神さまがここにいるってことは,高麗津という朝鮮半島との交流があったという地名にふさわしい話だと。

 神社から南進して最初の路地との四つ角,ほとんど路地を左にはいるとお寺があり,その前をぬけて走る。
 古道然としており池をまくように点在する家屋の間をぬけてゆく。池のハスがかぜにふかれている。
 つぎの分岐を左にはいってちいさな丘をぬけるコースをとるのは,ここは車道にでたくないからだけ。もあるが,
 集落の往還って道は古風にのこっているのだ。くだると小田の集落に入っている。
 この集落の名をもつ小田三郎らが平家の平知盛が島の中央部に城をかまえたさい,その味方をしている。
 義経が参拝した志駄岸八幡から数キロの集落だ。
 源平の戦いの戦場が瀬戸内海になるには,平家に味方するものが瀬戸内に多かったということだという。
 そんな昔の島の人情がここにあったということになる。

 ここの田園風景は島とはおもえない本格的な農村風景だ。豊な実りがあるのだろう。山すそを古道がめぐりおおきなお寺にでる。
 ここが龍心寺という。
 この寺は水軍村上氏の総大将の武吉が関ケ原の戦いののち島の内入に居住した際,
 村上氏の菩提寺を島の東につらなって松山につづく忽那諸島の野忽那島から移し,
 武吉の孫がここ屋代にうつるとまたここに移されている。移転費用もばかにならない。
 お金持ちだったようだ。寺の裏に村上の墓所が苔むしてのこされている。
 島の東部の平野の集落にある村上武吉の墓と同じおもむきだ。墓所からすこし山路をたどると神社の境内にでる。
 天神さまとある。いかにも江戸時代の武家の菩提所という景色で,お寺の境内はひろく静かな威厳がある。

 寺を出て学校のそばの道を左に北進して大回りして車道にでる。
 べつに意味はないのだけどここが吉兼で次の集落が郷になるという地名が気になって集落を回ってみる。
 郷って地名は律令制度があったころの集落の中心地のことだが,
 吉兼はその国家の土地のそばをあたらしく開拓した田になって個人的な田畑になる。名田という。
 郷はサトとよばれて50戸を一つの単位として公領になっている。
 無理に50戸にしたということもあるが,7世紀にかなりな集落がここにあったということにはなるようだ。
 この島が中央に領地とされたころ,ここには50戸の家があったことになるという。
 この最初に記録された住人たちがどんな人で,どこからきたのか,が興味をおこす。伝説のなかの人々をおもってしまう。
 それは660年ごろのことになる。
 この制度ができる以前にはバラバラな民族が分かれてすんでおり,それがおたがいに争っていたと考えられている。
 大和朝廷によってそれが徐々に統一されてこの制度になった。
 そののち約200年がすぎてここに安部成清という人がこの地に開拓にはいってくる。
 人口がふえても田畑がたりないってことになって,開拓した土地は国のもにでなく開拓者のものになるとなって
 開拓がすすみ名田が増加してここに荘園ができる。それが小田や吉兼って名になってるのだろうか?

 いま郷の坪という集落の名になってる上代の中心地の川沿いの車道をはづれてのぼりにはいる。
 屋代川が眼下にみえだすと,家々が山の斜面に軒をならべた集落の中央にでる。
 そばにお寺があり,その山門からみるとおおきな石垣をついた上にあることがわかる。
 そうして山門には正面からの入口がなく石垣をまいてそばからあがってくる道がある。まるで要塞である。
 江戸末期にここであった幕府と長州藩との戦争の本陣があったと石碑がたっている。さもありなん,戦争用って構えだ。
 ここまでの家々が離れてたっている様子に比べて込み合ってる集落の路地にもどると,
 くねくねとあがる道に志度石妙見神社参道の古い石碑が方々にある。この標識にしたがって急坂をあがる。
 大きな車道にでると,そこに荒神の祠がある。その道路に志度石妙見への新しい表示があって,道路そばにある階段をあがってゆく。
 道は山路で分岐は右に。すこしゆくと,車道にでる。なんだ!と押してきた自転車を見ておもう。
 その車道を左にあがると広場になって,右に石段がみえる。

 595年森に夜,天をつらぬくような光明がたちのぼり柱となっていた。
 村人は不思議におもい森深くわけいってみると,そこには八人の美女がおり,その七人は黄色のあとひとりは赤色の衣を着て,
 ここに北辰妙見明神が降臨した。夢疑うことなくこれを祭れば必ず幸せになると告げて天上にかえっていったという。
 ここに社・ヤシロを築いたから屋代とも,その社が八社だったから八代ともいって,この島の名になったという。
 長い長階段は600段以上もある。森は深い。対馬・厳原に鳥居だけがのこった白木神社がある。
 古くは志良石神社または白磯神社とよばれ,のちに白木神社となっているという。白木は新羅で古代韓国の国名。
 渡来の神様をまつっている。志度石という名との関連もうかんでくる。熊本・八代球磨川河口にある白石神社は妙見神を祭っている。
 古代大陸との交渉をもっていたことを物語るもので,・・八代市史にある。ヤツシロはヤシロとよめる。
 新羅からの渡来の人々の信仰が時代をおって妙見信仰に変わってきたのだろう。
 この島に白木山があるってことも新羅からの渡来の名だとして,今に残るのも不思議だとおもう。

 車道を下って左にかえる。下の集落にはいる農道のような道をくだると集落の中のこみあった道をまわってみる。
 家々も路傍の石仏もふるい。ここが神領という集落で,妙見の神社の領地であったのだろう。
 ここの神田・神社のための田を刈り取ろうとしたら蛇が300匹もでてきた。そのなかに角がある蛇も二匹いた。
 しばしウゴウゴしてどこかにいってしまった。そのあと鳥が数万羽飛んできて神田の稲穂をひきぬいて,それを神殿の屋根におとした。
 遠国の神様はかかることおわすものなり。という話がふるい書籍にある。
 ここには御鳥喰神事があって鳥がお供え物をついばみにくることで吉凶をうらなう神事があったという。
 この神事はいまも厳島神社と因島にある。神領の東端の古道をとっておおきく眼下の屋代ダムをまわる。

 大きな車道にでて,それが上りだすのをきらうように旧道にはいるとずーっと上の急な斜面に大きな民家が並んでいる。
 棟畑,中村,奥村と名づけられているがその区分もつかないほど高い場所にならんでいる。
 車道が正面にこんもりとした鎮守の森にぶつかると大歳神社。その神社そばの案内板がおもしろい。
 まるでどこかつかめないけど,この山々に多様な遺跡や観音さまがあることがわかる。
 神社のそばの車道からのぼる道にはいるとちいさなうすい石の板を積み重ねた石垣の上に人家がのっている。
 石垣のすきまから草花がガーデニングされたように咲き生えている。つぎもつぎもそんな石の板の石垣がでてくる。
 民家の軒先の農作業の老婆がここは名前どうりの石原だから,と笑われた。古い古い石垣にみえた。
 大歳の神様は農業の豊作の神様で出雲の神様の系列になる。神社のおおきカシの樹がスサノオの神の御霊代とあった。
 神社前の説明板に大歳神社の祭神を天真名鶴命としているとある。マナ鶴が神様になっている。
 説明版は慶長年間に伊予からの勧請したとあって,江戸時代にここに設置されたことになる。
 ふと,時代は大きくちがっているが,この屋島の集落を開拓した阿部成清という名を思い出した。
 阿部という姓は大阪の阿倍野にいた部族として,東北までその移動がしられている。この人たちは白鳥の信仰をしていた人々だという。
 また,こんな伝説もある。福島県会津若松市に角塚古墳がある。
 この墓はこの地にいた阿部掃部という長者の妻を祭ったもので,《この妻は邪険な性格で使用人ばかりか神仏も侮ることがあって,
 たちまちのうちに16本の角をもつ大蛇に変身させられた。》ここにも角のある蛇がでてくる。
 ここには,遠い東北地方の古代の部族との関連を浮かべる,そんな思いをどこからかひきださせるたたずまいがある。

 山腹の車道は快適にフラットな走りをさせてくれる。車もはしってくることもないだろう,ってほど路面は轍がない。
 右にくだる分岐は無視する。前面に海がひろがってくる。足元に車道がのびているのがみえる。
 分岐は直進し,またそのままみかんの畑のなかをすすむと大きな分岐になる。道から海岸を走る道路がみえる。
 下って右に入ればスタート地点になる。道なりからはずれるように左の山路へはいる。正面にお寺が見えるだろう。
 のぼりのたっていて新興宗教みたいだけど,ここに平安時代の大仏がおられる。
 寺をでて左ののぼりから新しい車道を走ると集落がひらけてくる。集落への下りにとってまた正面の峠にはいる。
 道は古風で峠をこすとちらばった民家をまわって,戸田・ヘタの集落にくだってゆく。この集落の谷はぽつりと民家が点在して古い。
 もともとこの海岸は風も強く,おおきな波が打つと塩害があって作物をいためる。また通行人も少ないから道にでて商売もできない。
 この島には船着場があるか,漁師がすんでいるところ以外に海岸にほとんど家がなかったという。
 車が走り出して,家々が海岸の車道沿いに移転されだして集落の中心になってゆくのだけど,ここはいまも大きな海岸の集落はみられない。
 この背景の山に古道がはいっていくが,つらくていきどまる。大峠とよばれて屋代ダムまでの道はすでにきえたようだ。
 ただ,いまも山陰に原定とか迎原とかの名が地図にある。標高100mはいってる斜面に営みがある。
 下って中浜という集落の東端に小さな祠とそのすぐ上の丘に墓がある。祠は赤石さまと呼ばれて信仰の対象になってるようだ。
 この石は小松の志駄岸八幡神社とここから東になる安下庄の長尾八幡神社との氏地の境界だという。
 赤ちゃんの宮参りはいまは勝手に神社を町では選べるけど,神社の氏子のなる儀式だからその地域で指定神社があったということだ。
 この地域を戸田と書いてヘタと呼ぶが,ナスやきゅうりのヘタのように端っこってことかもしれない。
 そのそばの墓は長崎和泉守という人をまつっている。
 毛利氏の家来であったが,訳あって領地召し上げとなり,この近くの寺を建ててここで亡くなったという。今もきれいに墓守されている。
 そばの表示にこの地の開発に功績があったとある。律儀な人たちの集落なのだろう。
 ここは走ってヘタヘタになるように斜面に段々畑という立地で出稼ぎが盛んな土地だという。
 ハワイ移民の資料館も屋代の役場そばにあるが,この出稼ぎでの成功者はりっぱな家をつくるという。
 腰高の二階建てのなまこ壁の家がだいたいそんな家だという。島のあちこちでこのスタイルをみかける。
 いまはそんな熱気もなくなった静かな集落をぬけて海岸線の車道をはしりだす。

 コースをよーく考えたサイクリングにも,ただただ走ってるって時間があって,それを力走りなんていうのだけど,
 車も少なくて海はただ青いってこのコースはそんな走りになる。車道からそばに波止場があって民家がならんでくると志佐という集落になる。
 集落の一番西端から畑の中に古道が峠に向かってはいっている。そのそばには車道がデーンとはしっている。
 力走りからホッとするのが古道だ。石段がみえるとそこは神社が丘の上にある。走ったあとの休息って思いであがってみる。
 新宮とある。この志佐は三原・能地の漁民たちが江戸時代にやってきて定住したという。
 がいま,漁村らしさはなくなって,道にふるい石の祠がただ置いてある風情で乾燥した印象をうける。
 古道はそんな景色になかでユタユタと古風に変わっていない。いい景色だとおもう。
 古道が車道にでてすぐのトンネルの入口そばから古道は登りから切通を抜け,すこしつづらに海におりてゆく。
 海岸の車道から住宅地になった塩田跡をみて車道が小松にながれるのにのって走る。
 いまは養魚場になった塩田は1700年に粟屋就貞という武士が藩からその功績に海面100町歩をもらった。
 海面与えるというのがおもしろい。その海を干拓して塩田開発をおこなうことにした。矢田部市郎兵衛などに命じて完成している。
 この矢田部さんは塩田の管理もまかされ,その塩が良質で評判をよんで長者とよばれるまでになった。
 大阪の豪商,鴻池から金屏風を1000隻借りにきたらたちどころにそろえて,船でとどけて鴻池の舌をまかせたそうだ。
 約40kmのサイクリングも結構な登板もあって,すこし足がうごかなくなってきた。波止場までもうすこしだ。
 小松の波止場は大島大橋の海,瀬戸,上代には鳴門とよばれた海の潮待ちの港であったろうといわれる。
 干満で変わる流れをまっていたのだろう。旧道が海に入るところがいまも港になっている。
リポート・走った人 サイクルフォーラム マネージャー 土井 小七郎
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