走る自転車コース 宮本常一を走る --周防大島(山口)-- コース2 詳細ページ
 
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 コースリポート
 大島大橋をわたって車道を左にはいって,そのまま三蒲の集落をぬけて岬を越すのぼりから椋野の集落をぬける。
 そのまま海岸線をゆくと右に長浦スポーツ海浜スクエアーのカンバンがある。
 ここに入るとのぼりになり左にはいり上り詰めると駐車場にでる。車ならここに駐車する。
 ただし,駐車は受付のある建物の右手奧に。ここの潮風呂保養館に来場する人たちが多くて,できれば駐車は奧にとのこと。

 大島大橋を渡りきって,左に折れ,右への山路の二つ目,オレンジロードとある農道にはいる。
 登ると交差点に。ここは正面に。約100mぐらいか?左を気おつけておいてください。ここに旧道があります。
 林の中を下ってゆくと二股の分岐に。右にはいってそのまま細い道をくだります。ここが小松と三蒲との古道になります。
 ゆっくり,といってください。新しく再建されたお寺そばから下ると田んぼの真中に真っ直ぐに東に進む道を確認しておいてください。
 山側から海にむかう車道を右にはいって,その直線の道にはいります。田んぼの真中です。

 「三蒲は平城京址から発掘された木簡の中に,
 周防国大島郡美敢郷凡海阿那男御調塩ニ斗と記されている美敢郷ミカモゴウの地であろうと思う。
 ここには極く最近まで海人アマがいて,大島瀬戸で瀬戸貝をとっていた。宮本常一S46」


 潮がひくと大島の下から歩いて海岸をいけることがある。 途中に筆崎というつきたった岩場があったりする。瀬戸貝にはおめにかからなかった。
 瀬戸貝は大島の本土側の橋の入口にある休憩所で売ってることがある。ここには瀬戸貝の炊き込みごはん弁当もあったりする。
 休憩所の右側のお店でうってる手作り弁当420円は昔味ってバリエーションで気にいってる。
 田んぼのなかの直線道が川に交差するところの次の道からすこし登るとお寺があって裏の小山が墓地になっている。
 そばの小学校や中学校・保育所があつまっている中央の道を海へむかう。右山側のお寺をみて,次の小路を山側にはいってゆく。
 その地点の手前の田んぼの中におおきな井戸があって水をすいあげている。田んぼに小さな池がおのおのの田についてるのを見られる。
 田中井というのだそうで,瀬戸内の島の田んぼにはけっこうみられる。集落を時間と気分でぐるっとまわってませんか。
 国道をよこぎって旧道をすこし戻るようにはしってみる。郵便局をとおりすぎて走ってると,左にないる三叉路にであう。ここに鳥居がたっている。  鳥居をくぐって国道手前にもう一つ鳥居にであうと,車道をまたいだ正面に神社がある。美蒲神社とある。
 美敢であったとしても不思議ない。
 というのは神社正面にあげられた紋章はそろばん玉を三つ重ねた三つ三菱というのかそのマークが亀甲でかこまれている。
 三つ菱マークは北九州・福岡県田川郡香春の香春神社は発祥だろうとおもわれる。
 香春は上代渡来してきた人々で豊姫,豊玉姫を信仰した金属精錬や稲作の技術者の部族としてしられている。
 この海岸におなじように渡来した人々がいて,木簡に記載された人であったと想像できることになる。
 宇佐八幡神社の豊玉姫のお母さんがまつられていることになる。
 神話で山彦が竜宮にいった場所がワダツミでこの信仰は朝鮮半島から対馬を経由するルートにあるといわれるが,
 ここ三蒲はそんな神話のたどった集落になるのだろう。境内はいつも掃除がいきとどいている。神社の脇の田んぼに子供ぐらいな石が残ってる。 この石に神功皇后が舟をつないだと言い伝えがあると,境内奧にたおされた案内板にあった。豊姫は神話ではこの皇后の妹であったりする。
 またここには温泉があったと伝えられて,いつしか湯が沸かなくなった時,伊予の道後で温泉が噴出したともある。
 伊予はこの豊姫さんを信仰する人々が瀬戸内海を東へと移動した際の拠点だという。・・と,いろいろと想像がふくらんでくる神社だ。
 温泉があったという話はこの島では結構あって,大島-1で走った志佐にも島の東端,鯛の峰にもある。
 温泉つきの漁師稼業って生活はきっとこの集落が豊であったってことのように思える。
 この集落に入るのにわざわざ通った古道の平地への出口にあたらしいお寺が建立されている。
 無住であれていた寺を住職を向かえて再興するってことがあったようで,そのための寄付の掲示があるとおもう。
 ざーっと200名でたしか4億円だったような,すっごい掲示だった。
 もう一度小学校から海へと走った場所にもどってみてください。山際のおおきなお寺の次の小路の登りをつめてゆくと路面はダートになってくる。 ここも古道ですこしの登りからフラットにかわり正面の丘に墓石の群れがみえるとトップになる。
 この墓地にはいる入口になる広場は桜が大きく,峠をあがってくると目に飛び込んでくる春は印象深いところだ。
 みかん畑に四つ角があってすべて農作業用の道で下れば椋野の集落にでる。
 お散歩とはいいがたい登りがある右への道は木屋原の集落へはいる。
 その途中の民家か店かという構えのガラス戸の中におもしろいものがありますよ。
 
 「屋代,三蒲,久賀などの村々は明治17年のハワイ官約移民開始以来,実に多くの海外移民をだした。
 そしてそのほとんどは一応成功したといっていい。
 ・・山手にりっぱない石垣を築き,農家にしてはりっぱだと思われるような家はたいてい海外出稼に成功したものの家であると思えばよい。
 腰高の瓦葺の二階家がたいていその家になる。宮本常一」


 海にむかって下り終える手前に中務茂兵衛堂の標識があるはず。
 この人は四国遍路のスペシャリストだったとある。生涯に回った四国遍路の回数のチャンピオンです。仔細は尋ねるといいですね。
 海岸の国道にでてすぐに家の間に上る古道をみつけよう。ここが旧道になる。ここは押しになってしまうけど,昔の人になってみるのも。
 古道ってこんなに趣があって,でもきっつい胸突き八丁があったりする。車道にでると,下れば長浦スポーツ海浜スクエアー。
 ここからのスタートの場合は久賀をまわってまたここにもどるってガイドになってるので,久賀の後半から三蒲コースに。
 ちょっと複雑でごめん。
 車道を右にあがってゆく。
 グラウンドをすぎると一軒のしろい建物があって,なんとステーキハウスらしい。いったことは当然ナイ!が,いってみたいな。
 この家の前を東にすすむと車道だけど細くなって古道のおもむきがしている。次の分岐は下れば久賀への道。
 下らずにそのまま農免道の道をゆく。
 道に古墳の表示,ちょっと不気味ですが覗いてみるのもいい。車道からすぐ。道はほとんどフラットで山をうねってはしってゆく。
 見上げるとオレンジのガードレールがみえる。これがオレンジロード。また標識があって,鎌倉時代の潅漑用水路とある。
 
 「久賀の棚田が他にみられないことは石垣に横穴があることである。
 平地から見上げる棚田の石垣はほぼおなじ高さで何十段というほど積み重ねられている。
 そのもっとも高い所にある田は海岸からかぞえて200段近くあり,海抜550メートルくらいのところまで及んでいるという。
 ・・その石垣も近づいて見てさらに驚く。実に大きな石を積み上げている。その石の多くは自然石でいわゆる野面積みである。
 このあたりの山地一面にごろごろしている石をあつめて積み上げたとみられる。
 ・・棚田が築かれるにあたって。傾斜地にまず石で暗渠がつくられ,それを土で覆いつつ,棚田が築かれていったものと思う。
 そうでないと10段20段の棚田の底をくぐった暗渠をつくることはできないはずである。
 とにかく驚くべき勤勉と英知によってこれらの水田は開かれたとみられるのだが,
 一つのホノギ(小地名のついてる範囲)がちいさく,いずれも百姓の開田した百姓名田ということになる。
 武士ならもっと広いものが多くなるはずである。しかもこの技術が他の村々にひろがらなかったのは何故であろうか。
 久賀の人々は石垣積みが上手で江戸時代には山口県下をはじめ瀬戸内海西部から北九州へかけて石垣積みの出稼ぎをはじめる。宮本常一」


 いまは水田はなく,その跡はミカン畑に変わっている。
 景色のなかで石垣がおおきな位置をしめて,それがきれいだと思うことはおおい。
 
 「比叡山における構造物の営造は,平安期を通じて営々と続けられた。
 そのために石垣技術は大いに発達し,その技術者たちが山麓の穴太に集まったのかと思われる。
 穴太衆という独特の技術集団が形成され,天下に知られるようになったのに違いない。
 穴太築き,といわれるものは中世以来,日本の石垣の最高水準を示すものであった。
 ・・城郭をつくるのに石垣を層々と築く様式が圧倒的に流行するのは,織田信長の安土城以後であったかと思われる。
 ・・秀吉の大阪城の石垣を築いたのも彼らであったといわれている。 司馬遼太郎・比叡の諸道より」


 滋賀の穴太・アノウが注目されているが,こんな話もある。
 
 「花崗岩の四角に割れやすい性質を利用し丈夫な石垣をついた。
 石垣はそのはじめ大きな石を積み上げていき,隙間ができると小さい石をかませておくというのが普通である。
 大阪城をはじめ姫路でも岡山・広島でも城はたいていこの積み方であった。しかしこういう積み方は波のあるところでは大変よわい。
 大きい波にあうと小さい石がぬけたり,またそういう所は他の石の重みの掛かり具合が不安定だからどうしても崩れやすい。
 そこでほぼおなじような大きさの石を斜格子型に積み上げてゆく技術が発達した。これを積み上げてゆくとおおきな一枚の壁になる。
 このような石垣が築立てられはじめたのは元禄から享保1688-1736へかけてだといわれている。
 この石の組み方は周防大島の久賀の石工がいちばん上手だったといい,
 九州西北海岸の古い防波堤には久賀の石工の築立てたものがすくなくない。 宮本常一・風土記日本」


 お武家さま相手の仕事より海あいての仕事はちがうね!!
 道はあいかわらずフラットにうねって時に海へとつっこむような景色で走ってゆく。
 ジブリの紅の豚の空からみる景色ににてると,密かに紅の豚コースと名づけているが,いかが?。
 紅の豚ルートはまだ続くのだが,外れてすこし登りにはいろう。眼下の久賀の町からのぼってくる車道と交差点,延命の滝の表示がある。
 ここを右の登りにはいってゆく。

 「今から200から300年前には海岸にほとんど家はなかった。家を建てたが物干場もないから,浜をお下げわたしください。
 という代官所に願い出た文章がのこっている。物干場もなかった小屋みたいなところに住んでいたとおもう。
 許可がでて沖の浜をすこしわけてもらっている。それで屋敷がひろくなった。今は浜のほうが大きくなっている。
 ・・反対に昔家があったところに今は家が一軒もない。たとえば畑能庄というところがある。そこから岡をこえた所に中田というところがある。
 そこには100軒近く家があったが,今は一軒もない。宮本常一」

 という畑能庄に入ってゆく。

 ここには延命の滝もあって,島一番の水どころだという。集落を回る道があって,中心に祠がすえてある。
 ここの石垣はそうとう古いようにおもえる。見事な石組みを堪能してほしい。
 昔さがしを石垣や島なのに山中の集落ってことでつらい登りやってるのだけど,もう一つ昔さがしの手を紹介しよう。
 
 「上の田から下の田にはミゾグチを作って下におとしている。江戸時代につくられた田は溝や川から,一枚一枚水をひいている。
 上から下へ水を落としている。ということは一人が持っているということである。新しい田にはたいてい溝があって水をうけとめている。宮本常一」


 この手が通用するのは棚田ぐらいしか今はない。ただ川があるのに池から水をとっている場合など,このほうが新しい田だとおもったりする。
 水争いがひんぱんだったって事や田んぼの開発には池まで作っておこなったのだろう,なんておもえる。
 池はそこにあるってだけじゃないのが当然なんだけど。

 畑能庄をまわってまた紅の分岐にもどって,山麓の道を東へと走る。
 下ってくる車道をすこし登るとすぐに左へとはいる分岐をとって,緩やかに下りかげんの農道を走る。正面に海が近づいてくる。
 左に新しい車道をみつけると,そこに入ろう。途中にかやぶきの民家がある。歴史民俗資料館だそうだけど,ただの古い民家を移したものだ。
 道を下っておおきな道を左にはいって,小川をわたって川沿いにのぼると八田八幡神社がある。
 神社の鳥居の正面の民家の入口にしめ縄がはってあるところを見ると,この神社の神官の家だろうか。
 鳥居には小さな桶がぶら下げてある。若水くみの桶・シオカキなんだろう。
 
 「家々で毎朝潮祓いがおこなわれた。 海にちかい浦や津原の人たちは,毎日浜へ潮をくみにいった。
 手提げ桶の形にしたものに汲み取り,家に帰ってまず入口を清め,
 次に神棚を清めた。古くはこれを行わない家はないほどであった。宮本常一」

 
 いまも朝,海にでて潮をくむという風習がのこってるのだろう。
 この神社の長い石段をあがってある石垣で,そのなかに埋め込まれた扇型の石を5ケ見つけると幸せが訪れるという。
 笑い積みという石組み達のワザだという。神社正面の道を町にむかうと次の小川にでる。すこし右へ川筋を下るとおおきな民家がある。
 伊藤火薬店とある。久賀の庄屋に伊藤氏という名がある。

 「山口の大内氏の家臣であったが,大内氏滅亡の後久賀に帰農した。
 ・・小規模ながらも独立経営をしている農民は領家または地頭に年貢をとられる以外には主従の関係はなく,
 このような落人を庄屋としてむかい入れ,自分たちの生活を外敵から守って安定させるための存在として映っていた。宮本常一」


 江戸期には金融業として栄えたという。明治維新の際この久賀は幕軍によって焼き打ちにあっているが,その時代もくぐりぬけてきたのだろう。
 久賀の市街地の旧道にはおおきな寺院が点在している。このお寺の建物の造りをぜひみてほしい。
 
 「高知の民俗学者が長州大工が高知の山中に多くの神社を建てていることを棟札をしらべて明らかにされた・・
 その大工たちはこの大島から愛媛の三津浜に上陸し,
 ちょうど土佐藩の郷士たちが幕末勤王運動のために脱藩して越えた道を逆にたどっていた。
 その大工たちの立てた宮や寺は,それは一目見てもわかるほどの特徴がある。
 軒裏に科梁の組み物があり,梁桁の木鼻に象・獅子・竜・鶏などの彫刻があり,欄間にも彫刻がある。
 ・・私自信の心をおおきくゆさぶられた思いだった。貧しいから働きにでたのである。それも金儲けのよいところへいったのではない。
 おなじく貧しく暮らしている土佐の山中へである。しかし土佐の方にはまだ生活にゆとりがあったのであろう。宮を建て寺を建てた。
 ・・そしてその建物を見ると決して金儲けの間に合わせの仕事ではない。自分のもっている能力をぎりぎりまで発揮しているのである。
 名を売るためでなかったことは,今はもう訪れる人もなくなった山中の木立の中にポツンと残っている観音堂などを見ても推定される。宮本常一」


 そういえば,三蒲に再建されているお寺にとまっていた工事の軽四はすべてこの久賀の工務店の名があった。 宮大工ってここにもあったのか!
 久賀の海岸の国道とその内側の旧道とに平行するように山際に古道がはしっている。
 ちょうど浜が西側で切れて山に登る道が左にはいってるのを見のがさないように。いきすぎると海岸に住吉神社がある。
 古道の登りをつめると紅の豚コースの分岐にであって,長浜スポーツ海浜スクエアーのグラウンドにでる。

 グラウンドの東端にある左への車道にはいる。この車道を左へとくだらないようにつめるとおおきな車道のであう。
 オレンジロードだ。これを左にとっておおきく山を巻くと左に入る下りのある分岐をとって,オレンジロードの下をくぐる車道を登りにかかる。
 ここは厳しい。右への分岐をやりすごして,おおきな民家のある分岐を左に。ここからゆっくりと登りにかかる。

 「この寺はその位置人家を離れた急峻な丘阜の上にあり,小松瀬戸の渦潮を見下して風光はなはだ佳である。宮本常一」
 
 とある松尾寺・ショウブジだ。すこし樹木がしげりはじめて風光はすこしした見えなが,お寺の裏にまわると,泉水がわいている。
 不思議な空間がある。寺から返してまたオレンジロードにのると大橋のたもとになる。
リポート・走った人 サイクルフォーラム マネージャー 土井 小七郎
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