走る自転車コース 宮本常一を走る --周防大島(山口)-- コース4 詳細ページ | |
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スタート・フィニッシュは片添ケ浜の遊湯ランドにしている。 新しく開通した国道への車道をとって道の駅の手前から旧道にはいる。すぐに大きな鳥居があって下田八幡神社・シタダとかかげてある。 道の駅の海岸に新宮島の島がいまは砂州と防波堤でつながってみえる。 「この浜辺に人が住むようになったのは17世紀の終わりごろであろうといわれている。そして西の部分は漁業部落として開けた。 はじめ漁師がどこからかきて海岸の松原の中に小屋をつくって漁業にしたがったようである。 そうしたところへ村の東の方にある小泊という所から大浜という網方が来て住み着き,イワシ網の経営をはじめた。 その頃下田部落の南側は満潮のとき海水が入り込んでくる湿地でタブの原といった。 そのタブの原を埋め立て,海水の入らぬように唐樋を設け,川のきりかえしをして,潅漑するよう施工して水田をひらいた。 1751年の検地帳には水田になっているから夜分そのころ開田は完成したものと思われる。 それと同時に下田は農業を営むものがふえてくるのであるが,それは漁師仲間が陸上がりしたものではなかった。 ではそういう家はどこから来たかということは明らかでない。宮本常一」 この島には郷社とよばれる八幡神社が6社ある。そのうちこの下田八幡は海から漂着した御神体だという言い伝えがある。 が,いま拝殿は海に背を向けて立っており,八幡社となる以前は厳島神社であったろうといわれたえいしている。 ただ今道の駅の西側のおおきな倉庫の隣に厳島神社がある。これも海をむいていない。 下田八幡宮の社家・神官は下田,正田,山田だとあって,正神官の下田家はその領地といわれる土地は小泊にあって, 明治になってこの下田家は小泊にうつったとある。八幡神社のすぐ西の道を山へととる。寺院がみえる。神宮寺という。 山門にならんで弘法堂がある。 「このお堂を建てたのは円明という比丘尼で18世紀の終わりごろ,諸国回国の途中, 江戸で越後新発田の城主溝口氏の娘の唖であったのを祈祷によってなおしたお礼に,大日如来の像をおくられたのをここに安置している。 弘法大師の像はそのかたわらにおかれている。したがって尼寺であったはずだが,後神宮寺の隠居所になった。 この境内のもっとも古い墓は1643年であるから,そのころここに寺がつくられたものかと思う。宮本常一」 「この寺の東の段々畑の中の細道をあるいていると畑の畦や隅に宝筐印塔や五輪塔の断片をみることが多い。 宝筐印塔の方は中世末のものが多いが,五輪塔の方は鎌倉末から室町末まで,つまり14世紀から16世紀にわたるものと思われるもので, この地域に昔からかなりの格式をもっていた人たちが住んでいたことが想定される。 ・・しかしこの古い墓をのこした人たちと,いまここに住んでいる人たちとのつながりはきわめてうすいようである。 古い墓を先祖として祀っている例がほとんどないことから推定が成り立ってくる。宮本常一」 この寺宮本常一さんの墓がある。道をもうすこし登るとまた寺にであう。眷竜寺・ケンリュウジという。 この境内から低い垣根越しにひろがる集落と海がとっても気に入っている。この寺院を中心とする集落を西方という。 今はみわたす田畑はミカンが植えられている。 「昭和30年頃田にミカンを植える者がでてき,それが島全体の風潮になった。大正時代に桑を植えたころには,田に植えるものはなかった。 それが昭和30年を境にしてすべての耕地にミカンが植えられはじめる。 ・・ミカンを植えておけば消毒や施肥は親類にたのみ収穫に手伝いに帰ればよい。都会で生活していて,なんとか田畑の経営もできる。 生活の根拠を次第に都会に移そうとし,しかも田畑を手放さないようにするにはミカンを植えるしか方法がない。 ・・年寄りが家にいて畑の守をしてくれるにも大きな負担にならないですむ。 ・・昭和45年には一軒あたり2.8人となって,そのほとんどが老人家族となって,若いものは都会に家を持ち移住してしまっている。宮本常一」 お寺の前の軽四イッパイの巾の道を登りはじめる。すぐに池のそばをすぎ,ウネウネとまがりくねる道をあがってゆく。 登りにはかかってるが,いつもあるカーブの急坂も感じない。ダラダラとゆっくりとのぼっている。白木山374mを登っている。 この山の山頂は平でサンノとよばれる入会山,一般農民だれでもそこへ薪をとり,肥料の草を刈りにいったという。 だからこんなに緩やかなルートになるのだろう。山頂からは,島の形まで見渡せる。 同じ道を下ってお寺のそばから左の農道にはいり,次の四つ角を左にとる。ここらがタブの原となるのだろうか。 車道にでるとそれに乗りちいさな峠をこす。病院がある交差点は直進して池て分岐する左をくだってゆく。 「いま海岸にある船越という部落はもとその東にある折井の垰というところにあった。 ・・その部落が海岸へ下っていったのはいつの頃か明らかでない。多分300年前のことではなかったろうか。 屋敷割はキチンとしておりながら菜園のある家がほとんどない。村の移転のとき,屋敷をほとんど平等に割ったために ・・江戸時代に入って海岸集落の発達したところは計画的な屋敷割がみられるのが普通である。宮本常一」 集落から東に走る。ちいさな丘を越えて交番をみると外入・トノニュウの集落にはいる。 「近世初期の頃までは海岸に集落はなかったという。そして郷とよばれる山手部落が今よりもっと家数が多く,そこが中心であったという。 ・・呉市吉浦にいた小早川氏の家臣で磯兼という武将が厳島合戦で日前の浮島の海賊大将の伊加賀十郎を討ち取り, その功績によりここ外入を与えられて,館を営んだ。磯兼氏はこのとき舸子・カコを連れてきた。 舸子は戦争の時は軍船に乗って出陣したが,日頃は漁業にしたがっていた。宮本常一」 この集落は路地が三俣になってそれがすこしづれて通っている。防衛の設定なのか?。 集落の東の高台に寺院がある。ここへは集落から直接は入れなくておおきく迂回してゆく道がついている。 この磯兼氏の居城跡がのこってのだそうだけど,どこかわからなかった。 集落の東から車道が山のあがっている。地家室への近道だが,海岸線を南下してゆく。 海岸は岬になってその道がおおきく曲り始めると浜の降りる道がみえる。いまはここにバス停がある。浜は伊崎とよばれる集落がある。 「大阪夏の陣の際毛利氏の家臣でこの島の安下庄を領地としていた青木善左衛門と緒方才太郎は御船手組・沓屋氏の配下だったが, 沓屋氏と争う事があって浪人を余儀なくされた。・・当時伊崎は未開の地であったが,そこを開墾することになった。 この開墾にたずさわったものは12名,妻子を含めると総勢22名であった。 1619年のことであった。まず,その頃船越の浜にはまだ民家は折井峠からおりてこなかったようで,浜の内側の沼地をひらいて田をつくり, 舟で伊崎に耕作にゆくことにした。 1623年になって開墾も一通り見通しがついたので,家普請にとりかかり,山を背にして日当たりの良いところが緒方家, その隣やや下ったところに青木家と,全員ほぼ同じ広さの屋敷をわけて家をたてた。全部で八軒であった。 ・・他にくらべるなら決してよいものを食えるところではなかったが,この村の人は実に仲がよかった。 1643年に善兵衛が死んだ時いっしょに開墾にはいった若党の椋左衛門は墓のそばに小屋をたてて墓守となって死ぬまでそこにいた。 才太郎は1672年に死んだ。村の人は大先祖としてまつり,祥月命日には村中の者があつまって供養しつづけて今日にいたっている。 才太郎は久兵衛と改名して,墓は自然石に戒名を刻んだものだが,雨ざらしにしてはもったいないといってお堂をたてて掩いにした。 九右衛門の墓は歯痛をなおしてくれると参るものが多く,そして伊崎の古墓さまの名で知られた。宮本常一」 この墓は浜にでて一番北端に新しい祠として建っている。この墓の場所を尋ねたおじいさんは,親切に浜まで誘導してくれた。 緒方の家はもう今はないとのことだった。 伊崎をでて車道を東に走ると地家室の集落につく。 下関より御手洗よりも船のつくのは地の家室と歌われたほどの帆船の船着場として栄えたという。 「ここは毛利氏の参勤交代の茶屋があった。毛利氏は江戸中期まで参勤交代は海路を大阪までいってそこから陸行した。 ・・ここに松井という家が落着いた。その何代目かが・・伊予道後温泉から15人の飯盛女を連れてきて船宿に置かせた。 その効果はてきめんでこの港にはいる船が激増した。・・ところが明治40年すぎから帆船の型が大きくなり,寄港する船はめっきり減った。 ・・幕末のころよい土がでるところで瓦を焼き始め,明治になって百姓家も瓦で屋根を葺いてよいことになり需要がにわかに増え, ここが瓦の一大産地になった。宮本常一」 路地でであったおばあさんに瓦を焼いていた窯をたずねたが,自分の家でも焼いていたが昭和30年ごろにやめて, 窯ももうどこにもないとのことだった。集落中央に中原神社がある。 ここにはスイセンの群生が神社周辺を覆って,すこし高台になった拝殿から鳥居越しにみる早春の集落は印象深いものだった。 もう一走りで佐連の集落につく。 「佐連のサレはソウリ・ソリ・ソーレなどと同じく焼畑あとを意味する地名のようである。 口碑によると白木山の西の鞍部を越えて西方の百姓たちが焼畑作りにでかけていたというが,その辺りに定住するようになり。 それが佐連であるという。宮本常一」 話はそれるが先般インドネシアでの焼畑による煙の公害が問題となったが,これはマスコミのかなりの勘違いだといわれる。 焼畑は森にパッチワークのように切り込みをいれ,その切り込みに巾30cmほどの溝を深くいれる。 そうして斜面の上と横から火入れし,ころあいを見て下から火をつける。予定の広さを焼ききるとまだ煙っている台地にソバを直播にする。 焼いた事で地面は熱くなっているが地表10cmも下は腐葉土をとおした熱はつたわらず,昆虫ももぐって火をやりすごしている。 この腐葉土に火が入ると地中を伝わる為,溝は腐葉土を完全に断ち切るように掘り込まれている。 ソバ・ヒエ・ダイズと作物を替えて植え,その後放置する。そこにお茶が生えて,数年でもとの森の植生にかえる。 放置期間は20年から30年ほどとられる。これが九州・椎葉での焼畑で日本全国作物はかわっても同じ作業だろうといわれる。 無農薬で潅漑もいらない農法としてまた注目されてきている。 焼畑の収穫時期は4から5年でそのあと25から30年もおいて森のかえらせるという性格から大規模にはひろげられない。 インドネシアの煙は大規模なヤシの農園作りの結果であって,アマゾンも同じだといわれている。 自然の恵みをその与えられるままいただくという焼畑農法の収穫になり,スーパーで好きな野菜を求めるってわけにはいかないのが難点だろう。 余談です。 佐連からすぐに沖家室大橋に出会う。橋は急流の上のかかって,いつも風が強い。 佐連も地家室も海賊浦といわれていたようで,沖家室も16世紀中ごろは無人となっている。 厳島合戦がこの島の漁民たちにあたえた影響は大きかったのだろう。 「江戸時代以来瀬戸内海屈指の漁村で,家室千軒といわれた。しかし江戸初期には漁民の島ではなく百姓の島であった。 いまは沖家室といっているが,江戸初期には上の家室といったようである。 16世紀の終わりごろここは無人島であったのを,伊予河野氏の滅亡にともなってその家臣たちが追々この島に来て住むようになったのが この島の起こりであるといわれている。・・元禄11年1698この島に鼠が異常発生して作物を食い荒らし,島民が飢餓に陥ろうとした。 そこで庄屋石崎勘左衛門(河野氏の家臣であった)は紀州からイワシ網を招いてイワシを引いて飢えをしのぐ計画をたてた。 この計画はうまくあたったようである。島の周辺はよい漁場にめぐまれており,漁浦として発達しはじめる。 そして本浦の西に洲崎という部落が発達しはじめる。その上この島は九州諸藩大名の参勤交代の寄港地となった。 海が荒れるときなど大名はここに船を着け泊清寺を宿所にあてた。したがって泊清寺は海の本陣だったわけである。 そして幕末の頃には千軒ちかい民家があった。宮本常一」 この泊清寺には境内におおきなイチョウがあって,その下にしっかりとした椅子が数脚おいてある。 海は背伸びしないと見えないのだが,通り過ぎる風を座って受けていると,とても贅沢な時間だとおもえた。 その境内にフカ地蔵の祠がある。 「昔下関の山形屋庄左エ門とその娘が上方から帰る途中,この沖で船が止まってしまった。 よく見るとおおきなフカが船の底についている。 これは船にのっている誰かをほしがっているということになって,それぞれが持ち物の手ぬぐいを海にうかべてみた。 山形屋の娘の手ぬぐいが沈んでしまった。親子はおどろき悲しんでいると,沖家室にはフカ地蔵といってあらたかなお地蔵様がある。 祈ってみては,と言ってくれた。一心になって祈り,たすけていただけば孫子の代まで代々お地蔵様をきざんでさしあげます。 というと,フカが船からはなれた。そして親子はそれから代のかわるごと地蔵の寄進がつづき,いまは5体ならんでおり, もっとも新しいのは昭和14年とある。宮本常一」 もうひとつ 「この島の善兵衛というお人よしの正直者の漁師に美人の嫁がいた。この嫁にいつしか情夫ができ, 二人は計って島の沖の引き潮には岩場があらわれるセンガイ瀬に善兵衛をつれだし,放置したという。 満ちてくる潮に絶体絶命の時,1匹のフカがあらわれた。それも善兵衛に乗れというばかりであった。 どうせ死ぬるのだったらと善兵衛はフカの背中にもっていた包丁をつきたて,それにつかまった。するとフカは悠々島まで泳いでくれた。 助かった善兵衛がお地蔵様にお参りにゆくとフカにつきたてたはづの包丁がお地蔵様の背中にたっていた。宮本常一」 祠は戸がしまっていて,背中は見る事ができなかった。島の伝説をもう一つ 「一人の旅の僧が島の民家で水を所望した。 その家の老婆は水がめの底にあった残りわずかの水を飲まし,島の水の不便をはなした. その僧はそぐに浜辺を掘ってみよ,うたごうてはならない。私は空海という。といって足し去った。浜辺をほるとこんこんと清水がわきでてきた。 それから長い年月がたった。島は海賊の巣になりそうして人がすまなくなっていた。 ところがまた人が住むようになって,また水が足りなくなったころ,一人の僧侶が浜を歩いていたが,ある場所で動けなくなった。 ここに何かあると住民とそこを掘ると清水がわきでた。奇跡は忘れられまた奇跡となった。宮本常一」 この井戸がどこなのかはわからなかった。ただ路地ごとに井戸がある。 橋を渡り返して東へと走る。車道にはおおきな桜が並木に植えられ,五条千本桜とよばれている。 明治35年,昭和35年の地図にはこの五条という地名はない。なにか新しい集落かとも思うけど,それらしき集落はないようだ。 車道が並木を離れて浜へと下り始めるとすぐに山に登る細い車道に入る。大積の集落の南端を登ってゆく。 かなりの高度の集落が斜面に広がっている。この集落への路地が水平にはいっている。家々をぬうように水平にすすむ。 おおきな古い民家が多い。眼下に広がる海は四国山脈まで見通せる。路地をとにかく水平移動してゆくとこの谷の反対側にはいってゆく。 そこから岬を高巻にまわっている道筋がみえる。ここは地図では破線になっている。ミカンの畑の中の作業道のようだ。 切れるかと不安だけどくねりながら続いてくれた。小積の集落に入っていた。 ここも水平移動し地図にある高巻の道をたどったけど,これは行き止まりだ。 作業道は集落の境ではとぎれることが多いってわかっていたのだけど。大積と小積が兄弟集落ってこともわかった。 小積の家を急坂でくだるとすぐに片添浜にでる。スタートした遊湯ランドに帰る。 |
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