走る自転車コース 宮本常一を走る --周防大島(山口)-- コース5 詳細ページ
 
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 コースリポート
 「周防大島東部は美敷郷といわれた土地に成立した荘園である。美敷はミブと読む。大島ではミをニとなまるくせがある。ミガマをニガマという。
 ミノをニノという。またミナ巻貝をニイナと呼ぶ。そこでミブがニフと発音されたと考えられる。
 トノニフ・ウツニフは外のニフ・内のニフがもとの名であったであろう。そしてそれは船越から東の地域であったろうと考える。
 その美敷のなかに平家の領有する荘園が成立し,源平の戦に平家がやぶれてから,朝廷がこれをとりあげたのである。宮本常一」


 その島東部を走る。遊湯ランドからスタートして北海岸へのぼり下り始めるとすぐに右にはいる旧道の分岐がある。
 ここに入り家への路地かと見のがしそうな路地に。この道はすぐに広くといっても軽四いっぱいの巾になる。

 「人の住み始めたのはもう二千年も前のことであったと思われる。
 平野と東隣になる森の集落との境に平野の祇園さまでとおっている八坂神社がまつられている。
 その後のミカン畑から弥生式土器がたくさんでる。ここに昔の森と平野の境がとおっており,すぐ上に薬師堂がある。
 この二つの寺社はなんの変哲もないようだが,実は両方とも古い歴史をもっている。
 祇園の方は昔この地方に悪疫のはやってきたとき京都から勧請してきたのもであるという。
 何時頃のことかはわからないが,ここに樹齢400から500年ほどの松が数本あって,いまは伐ってしまって跡形もないが,
 この松がこの社の歴史を物語るものとすれば15世紀か16世紀のころ,ここに勧請せられたものであろう。
 そしてそのとき神人もいっしょについてきたといわれ,祇園さまの祭りばかりでなく,下田八幡宮の祭りの際も楽器をもって神楽を奏していた。
 藥師の方も記録はのこっていないが鎌倉期のものと思われる薬師如来の坐像があるから,ここに祭られた歴史は古いとおもう。祇園よりは古い  時代に祭られたようだ。それがしかも森と平野の境にまつられたということは自己の領内に悪疫のはいらぬ為であっただろう。宮本常一」


 「しかし16世紀の中頃,すなわち厳島の戦いのおわった後の頃には,寺も荒れ果てて祀る者もいなくなっていたのではないかと思われる。
 それを長崎に住む二宮氏が再興したといわれている。
 岩国の吉川氏の家臣だあったと二宮氏はいわれているが,ある年岩国へいっての帰り海上で日が暮れて方向もわからなくなってしまい,
 神仏に祈念しているとはるか彼方に明かりがみえた。その方に船を漕ぎ進めると平野の浜についた。
 そしてその光の発する所をたずねあて,地中から藥師仏を得たという。多分荒れ果てたお堂の中にこの仏像があったのであろう。宮本常一」


 路地をすすんで正面に大きな寺院の屋根がみえると,すこし右に石仏がある門への登り道がある。
 そこに入ると正面に平屋の民家のような薬師堂がある。一番左手の小部屋のにおおきな藥師様がおられる。
 庭にも石仏が四季の花のなかにならんで,いつまでも休んでしまいたい所だ。

 「1月8日は八日藥師といって毎年この薬師堂にまいった。小さいときは祖父につれたれて,大きくなっては友達仲間と。
 寒い頃の祭りで,アナジの風のふく丘を下ってくるのに,鼻のいたくなったのをいまも思い出す。
 ・・この藥師様の姿が心にとまった。仏様はどこの寺にだってある。金箔でピカピカしていて美しいが,それは何ほどの印象ものこさぬ。
 しかしこの藥師様にはなにか幼い心にもせまってくるものがあった。宮本常一」


 薬師堂をでると路地が家や荒れた畑の横を海に下っている。旧道にでると祇園社がある。
 この前が三叉路になって,もう一本海岸の車道に平行に旧道がある。
 祇園社からすこし左にゆくと住宅地のなかを幾とおりにもと思えるぐらきに路地か交差している。
 古い古いままの道であろうかと,それをぐるぐると回ってみる。小山を越えひろがった畑の向うに大きな石垣が大きなお寺をのせている。
 ここの住職はBMXのフリースタイルのライダーだといっていた。

 もどって住宅地の中の保育園のあるお寺の正面から海へとむかい旧道を右へとはりし国道にでてすこし戻ると海につきでた小山に入る道をとる。 すぐに鳥居があって神山神社につく。

 「この神社は弓削島の法王神社を桑原氏が勧請したものである。
 伊予・河野氏の家臣で瀬戸内に散在しており,この地に移り住んで勢力を拡大したものと思われる。宮本常一」


 この神社は弓削からここに勧請された際に神官もここに渡ってきたとあって,神社すぐ脇の民家がその神官の代々の家だった。
 高田氏コウダという。室町時代ごろのことだという。いまは無住のようだったけど。

 「桑原氏は戦国時代の中ごろにはおおきな勢力とはり,とくに大島海賊の名をもってよばれ,大内氏に仕えた。
 瀬戸内海から朝鮮半島をおそった倭寇の大半は食糧倉庫をうばっているのである。
 しかも瀬戸内海の海賊のうち勢力のあるものは多くは島にすんでいた。
 本土の大名たちに対抗しるための食料確保が初期の倭寇であったといっていい。
 室町時代の島の東はそういった人々の巣であったとみられる。宮本常一」


 この家の前の路地から小山の東に路地がさきの浜まで田んぼの中を走っている。
 浜を東に回って小川のそばに走る路地を山までもどる途中は牛の牧場になって少々びっくりした。
 車道にでて少し右にはいると左に丘へとのぼる道がみえる。ここをのぼり大きな車道をはしると交差点にでる。右にくだると和佐の集落にはいる。

 「厳島合戦のあった年の大晦日,和佐へ何人かの落武者がやってきた。
 -おれ達は敗れた陶氏の一族で,なんとか陶氏を建て直したいとのがれてきたが,毛利氏の追及の手は厳しくどうにもならない。
 すぐにかぎ出されて落ちて落ちてここまできた。がもうどうにもならない。ここでいっそ死んでしまおうとおもう。気の毒だが家を貸して欲しい。
 よろしい,お貸ししましょう。いいおくことがあれば言って欲しい,しっかりと供養しましょう。とかえした。
 それからこの村では餅を正月に食べなくなった。何年か後村人で雑煮をたいたものがいた。
 それを食べようとすると,餅から血が流れ落ちたという。ちなみにこの和佐には末谷とか末野とか,陶氏にあやかる名が多い。宮本常一」

 道が集落に入るすぐ手前左に和佐八幡神社とそのとなりに今は廃校となった和佐小学校がある。
 ここの領主は平岡氏といって伊予・河野氏の一族で河野滅亡から毛利氏に仕え幕末をむかてた。長州閥にはいり東京にでて高級官僚なった。
 その子孫に作家の三島由紀夫がいる。その隣にある小学校にある日ドアが開いており入ってみた。
 歴代の校長先生の写真や子供達の絵や黒板に廃校になった日の書きおきがあって,いまでもすぐに使えそうだった。
 音楽室のオルガンは演歌の作詞家・星野哲郎寄贈とあって,子供達の書き置きにも廃校の日星野さんが列席されていた様子で,
 帰って経歴をしらべると,この学校の卒業生だった。神社そばに古い五輪塔のカンバンがある。
 畑の中から山へとあがってゆくと丘の上に心月寺址という祠とお地蔵様が33体ならんだあかるい広場がある。
 海への展望がよく,どこか懐かしい景色の中にいるようだ。海岸集落は規則正しくならんでいるようだ。

 「和佐には揚げ浜塩田のあととわかるところが今でも残っている。宮本常一」

 海岸の集落は多くが規則正しく区分された区画に立っているところが多いようだ。
 塩田の跡になるのだろうが,海岸を仕切って樋門をつけて満潮時に海水を引くという入浜式塩田というのだそうで,
 揚げ浜塩田は海水を汲んで砂にまくという重労働で,残ってるのはめずらしいのだろうが,その区別はわからない。
 集落のすぐ山側に車道が海岸に平行に走っている。岬を横切ると小泊に入る。

 「ここに帆船の船員の斡旋所があって,そこへ申し込み経歴や資格について登録しておくと海員手帳をもらうことができる。
 帆船の船員は勝手にどこでも雇おうってことはできなかった。船員をほしいと思う船がやってきて斡旋を依頼すると適当な人を振り向けてくれる。 その為寄港が多く,料亭もあれば芸者も20人ちかくいたこともある。宮本常一」


 集落の一番東端に木造のでっかい建物がある。
 造船所なのか,もしかしたら斡旋所で宿泊できるものなのか?島で一番大きな木造建築だとおもっている。

 小泊からさきほど下ってきた道を返して降りると内入・ウチノニュウの集落。車道の途中に右にはいる路地が池のほとりにある。
 ここをはいるとおおきなエノキが山側にみえる。ここを山道へ右にとると村上武吉の墓書のある元正寺への階段にでる。

 「この地の近世は村上氏とともに始まる。村上氏は今治沖の島々に拠った海賊の家であった。
 それが村上武吉のとき毛利氏に味方し大きく勢力をのばし,その傘下にあった。
 関ケ原の合戦の際伊予の三津浜で長男元吉を戦いでなくし,そののち一家は離散しこの大島に落ちてきた。
 そして武吉は和田の落着き亡くなった。もう一人の息子景親は村上家は毛利氏の御船手組頭となって毛利氏水軍を統率している。宮本常一」


 東側のおわんを伏せたような山をまいて入ると和田の集落になる。旧道からもう一つ山側の道を東につめると池にでて正面に寺院がある。
 池の瑞にある二対のお地蔵様とそばに大きな坐像のお地蔵様があって背景の湖面にとけこんでいる。
 道は池のほとりを取って返し山へとあがる道をとる。大きな車道にでて上り詰めると峠に左に入る古道が森のなかにみえる。
 このに数体のならんだお地蔵様をみるとくだりはじめる。道の端に次々とお地蔵様があらわれる。
 古道はきりたった山をけずるようにつけられて正面にはるかな広島湾がひろがっている。
 集落に落ちるようにつけられた道はやりすごしてできるだけ直進してゆく。道は巾がかわってきて,茂みをぬけて登り下りはじめる。
 分岐がいくつもある。ミカン畑の作業道らしい。つめると行き止まりだったりする。ダートに入ったら行き止まりだとおもって
 ・・もわからないよね。道が大きく海へむかって急坂になると山中の彷徨はおわる。
 自分としては楽しいルートで,紅の豚をライバル視するがあんまり相手にしてもらってないカーチスの名をとって,
 ここをカーチスルートとよんでいる。

 車道の出口は逗子ガ浜。青少年旅行村があるそばに筏八幡神社。神社は西の浜辺にむかって建っている。
 周囲に集落はない。この沖に筏瀬という岩礁があって,この御神体はこの瀬に厨子に入ったままあがったものでその名を筏と呼ぶが

 「対馬の一宮である木坂八幡は古くは和多都美神社としてあり,
 壱岐の島でも海神社アマノとして祭られた神が今では八幡神として祭られている。
 ・・島の周囲の海岸には塩を焼くことを業としていたものも少なくなかった。
 その製塩の方法は揚げ浜か内潟浜を利用したものであったとみられる。
 塩を焼くことによって海上漂泊をやめて定住し,薪を取った山を開いて畑をつくり農業を営む者がふえてきたとみられる。
 和田もそうした村であったろう。この村には揚げ浜塩田が近世まであった。宮本常一」


 和田がワダツミのワダだとしたら・・。
 車道を走って和田,内入と通り抜ける。ここまでくると車に幅寄せされるってことはないようだ。岬を回ると神浦に入る。

 「大正の終わりごろまでは神浦と内入に間には道はなかった。浜を通るには潮干をまって歩かなければならなかった。
 ・・そういうことがこの土地を島の果てという感じをもたせた。宮本常一」

 
 車道を森,平野とぬけて遊湯ランドにかえる。が,平野藥師に立ち寄りたくなってしまう。片添ケ浜への車道の交差点向うに小さな路地がみえる。 ここに入るともっと古い家並みにはいったような感覚があるよ。
リポート・走った人 サイクルフォーラム マネージャー 土井 小七郎
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