走る自転車コース 宮本常一を走る --周防大島(山口)-- コース6 詳細ページ | |
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コースリポート | |
船で島へ渡りたい,という気持ちが離れません。そこで岩国の新港から松山への高速艇が島東部の伊保田に寄港するので,これに乗りました。 自転車はそのまま船にのせてくれます。スタートはこの伊保田の港から時計の反対回りです。 伊保田の港をでるとすぐに集落の外れになり,ここから正面の岬と島中央部の山の鞍部がみえます。 国道から直角に入る古道に入って,この鞍部への古道の登りをとります。 高度があがるほど眼下の伊保田の町からその先の大島のしっぽとその隣の情島が箱庭のようです。 峠を越して小伊保田の集落にはいると,ここには田園のなかに山桜の古木がおおきく背伸びしていました。 小伊保田の集落をはずれて国道を西に走ります。ただただ走りになります。ここはすでにコース5で走っています。 和田から西隣の内入は旧道もつながって最初の交差点を山側に入ると淡路さまの池で右です。 落着いたいい道ですが池の瑞の古い大きな民家が無住で廃屋になりかけているのが残念です。 集落のおくまった道を走って旧道が内入にはいって小泊への道路標示にそって登りです。小さな峠にはトンネルがあって下ると小泊です。 海岸にでる手前に左にはしる車道があります。ここを走って海岸線のアップダウンを3つこなすと馬が原の集落です。 「ここまでくると四国地が手にとるように近い。馬が原というのは昔は馬の牧であったらしい。 ・・昔は無人の地だあったと思われる。昔のままの砂浜があって,地引網をひくにはほんとによい場所であった。 そしていまでも多少イワシがとれるのかイリコ小屋がのこっている。 ・・東の由宇へでるには海岸の細道をゆかねがならず,北の和田へ出るには阿弥陀仏ガ峰をこえねばばらず, 西隣の小泊へは道は通じていなかった。 不便といえばこの上ない不便なところであったが,海があり山があり, 世間態を気にしなければこれほど気楽なとこるあないであろうと思われる別天地であった。宮本常一」 いまイリコの小屋はみあたらなかった。が浜へ中央に小山がはりだして, それとその後ろまで段々畑とミカン畑がモザイクに交差してある景色にはきっと足がとまると思う。 集落中央からこの畑をぬうような作業道を走ってみる。畑の間に桜の木もあってたしかに別天地だ。いや楽天地だろう。作業道を集落にくだる。 作業道は大きな車道につながって,東の由宇にはいるが,集落東端から海岸をはしる古道が美しい海の中までみせてくれる。 油宇は島の南海岸はいき止る。 突き出た保木鼻の岬の断崖とその奧上にそびえる鯛ノ峰の絶壁とがこれまでの島の景観とまったくちがった景色になる。 その海に大きな防波堤がひろがって,カモネとカラスが群れになって滑走している。 「油宇は島の東端に近く,伊予への渡津・トシンであったために早くから人が住み,時には力ある豪族がいたこともあると見られる。 油宇の郷にある淨西寺に古い石碑がニ基ある。 ・・以前は海岸にあったのを後に淨西寺に移したものである。そのころこの石碑にある石宅,清原などを姓とする人々が住んでいたのであろう。 周防国の東端の地として国の守りにあたっていた人々であるかもわからない。宮本常一」 清原や石宅という姓は東北地方にあって,防人として西国に派遣された人々ってことでも・・。万葉集の防人の歌が,ここに流れて・・。 この淨西寺から丘をまくように古道がそばの集落にくだてゆく。港と麓の真中の鎮守の森があってそのなかに神社がある。 港。町。神社。町。お寺。とならべられて,海鳴りにカモメが舞う。集落は古風で峠にあがるかしこに古い井戸と井戸端がみられる。 「井戸といってもくぼみに湧く水を汲み取るようになったもので,普通にツボカワといわれている。 村の中をあるいていると,そのツボカワをみかけることがある。・・峠にはこの小屋がけのツボカワのほかに,すぐ近くに共同井戸もあった。 その井戸には備前甕の側がはめてあっら。井戸枠に陶器をつかう風習はすでに藤原京の時代からあって,これを瓶井・ミカイといった。 時代は新しくなるけれども,ここにも瓶井のあるものを見る事が出来る。 そかも井戸側を目的として焼かれたものであることは竹のタガの形が細工せられているのでわかるのである。宮本常一」 「峠をのぼってゆくと,風除けの道松がのこっている。尾根の上にこの松を植えておくと大風の吹いてきたとき,吹きおろしになる。 風をこれでやわらげることができるので,瀬戸内の島々にはいたるところに見られたが, いまはほとんど刈り取られて昔の面影をとどめるものは少ない。宮本常一」 トンネルをくぐって,すぐ左にあるトンネルの上にあがる古道にはいる。松より竹薮になってるが,大きな桜がつづいていく。鯛ノ峰への登りとなる。 道は作業道だが鯛ノ峰のアンテナの保全用でもある。桜並木がつづく。途中祠の標識がある。これをたどると古い小さな神社につく。 ここに温泉があったとある。もどって鯛ノ峰へと走る。山頂へは小路がはいっていた。もどって伊保田の集落に入る。 峠の学校は油田とあって,油宇の人たちが伊保田を油田と呼ぶ。このギャップになれるのに時間はいった。 みんな油田は・・とはなしてくる。油田は油宇と伊保田の合成になる。 「この地は油宇とともに村上氏の給領地で, ここに定着した家来は岩本,石崎,小田,島,浅海,俊成,小島などの姓をもつ伊予越智郡の出身が多い。 ここまで来ると伊予とのかかわりがずっと強くなり,出稼,通婚,通学,通商なども松山と結びつくことが多い。 伊予絣なども,もとは島東部で織っており,松山に送られてレッテルで売り出されていた。宮本常一」 集落を東にはしると車道は岬前で半分の巾にせばまる。ここに海と山両側に斉の神となるのだろうか祠がのこっている。 古道然として雨振の集落にはいってゆく。 「ここに中本という旧家がある。300年あまりもここに住み着き幕末の頃から活魚の問屋をしていた。 大島の東部や付近の島でとれた魚はここのイケスにあつめ,早く死にそうな魚は伊予の三津浜や広島の草津の市にだし, タイのような上物は冬の出買船で大阪に送った。そうしてこの家は繁盛をきわめた。明治30年ころ東和町のなかでの最高納税者であった。 しかし魚の輸送が動力船になって競争にやぶれる。それはまた伊保田に通ずるものがある。宮本常一」 この中本の家はすでにここにはないと聞いた。 小さな集落は海岸ぞいの道路にならんでいるが,その山側にはちいさな畑とそのあぜに季節の草花があった。 奧の丘にあたらしく荒神さんの祠も皆で建てたおばあさんがはなしてくれた。集落の道はまだ東へとのびる。 路がつきあたる集落が両源田。いよいよここが集落の端って場所にモダンな事務所のある家。 ここの防波堤の中にイケスとそれを運ぶ船が繋留されている。天然,地物とよばれる魚はこんなふうに流通しているのかと? 伊保田にもどる。フェリー乗場から小さな川の側に山に入る路地をたどる。旧道との交差点に食堂がある。川口食堂。 ちいさな食堂のメニューは丼とうどん。が,おばさん煮付け!!とか刺身とか!!。 たのむと,かならず,これは隣の漁師のおじいさんが手つりしてくれた魚だよ。と,でてくる。 ちいさかったり,大きかったり。どこからきんさった?おばさんオレもう4回目だよ。沈黙。実はここでビールやりたくて船乗ってきた!!のだ。 |
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