”しまなみ海道の島々の古道を走る/しまなみ海道(広島・愛媛)”  コース1 尾道から向島をぬけて因島周回・漁師と船頭たち  「中世末までは,漁民はきわめて移動性のつよいものであった。  北九州から瀬戸内海には海上漂泊民がことのほか多かった。  それらの漁民は多くは沖の小島を根拠地にしていた。  彼らは夜漁を主としていたため,自然家族も船に乗り込み海上漂泊をした。  ・・彼らは初めから耕地というものをもっていない。  だから陸へ上がって耕作することをしらぬ。  耕作をしらぬから一定の土地への永住もなかなかすすまなかった。  同時に陸に永住しないということによって,その地で租税をおさめることもない。  ・・出先の土地のひととつきあいもしなければ,租税もおさめないとなると,  うとまれるのも当然だあったが,同時にいろいろの制約をうけない自由さもあった。  ・・それらの漁民の多くは沖の小島を根拠地にしていた。島に別に田や畑はなくてもいい。  水と薪が得られるなら事足りるのであって,  むしろ誰にもわずらわされるもののない方がよかった。  ・・この仲間は食うに困ると通り合わた船などを襲ってものをとった。  いわゆる海賊化したのである。  もともと海の上の漂流物はこれを見つけたものがとってよかったし, 筑紫・宗像神社ではその漂流物を神社の修復料にあていたほどであり,  海から流れてくるものは海岸住人にとって得がたい宝物の一つでもあったが,  それだけでなくすすんで沖行く船の積荷までとるようなものが平安時代の終わりからでてきた。  ・・海賊の根拠地といはれるものはきわめて小さな島で,  そのほとんどが時に船をよせて憩っていく程度のところであった。  ・・これらの人々を定住させることは  海上交通の秩序をたてていくうえできわまて重要なことであった。  その近世的な秩序をうちたてていったのが豊臣秀吉であったと言ってもいい。  ・・秀吉の海賊禁止令にあって小島居住を禁ぜられた仲間はいったん本土の海岸に  あたらしい根拠地をもとめて移住したのではないかということである。  広島県のうち尾道の吉和,三原の能地,忠海の二窓などそうした  漂泊漁民の集中移動したところではないかと見られる。宮本常一」  「土地,建物を直接所有せず,小舟を住居とし一家族が暮らし,海産物の採取に従い,  それを販売もしくは物々交換しながらたえず移動する人々を漂海民としている。  ・・彼らは集団ごとに一定の根拠地をもっていて,年中行事や祭礼をとり,  一年に何回かそこで会合し,短時間だが, 集団で行事をおこなっていた。  ・・そして行事をすませると再び家族単位の生活にもどり・・海に散ってゆくのである。  ・・この漂海民は東南アジアではインドシナ半島から  マレー半島,スマトラ,ジャワ,セレベス,ボルネオ,そしてフィリピン,  中国大陸南部では珠江にもっとも集中し大陸南部に広域に,さらに日本では  九州,四国,中国,近畿と北陸の各地方に分布は続いていたようである。  ・・この漂海民にはなにか異常な外的圧力があったという口碑が語り継がれており, 日本では平家の落人の後裔だという口碑が伝えられる。  これらがどこまで史実としてあとづけできるかはおのずと別問題だが,  このような危険をともなった生活様式がいきるのは,  なにかの外圧を考慮しなければ説明しがたいともいえる。  ・・吉和家船にのこる口碑では,その祖先は足利尊氏の味方をして,  延元元年1336の九州下りと,  つづく都へのぼる戦さに水軍として味方したと言い伝えている。羽原又吉・漂海民」  尾道・吉和は町の一番西にある。  尾道駅の北口から山すそを道なりにゆくと,大きな三叉路を左,  スーパーのよこをぬけて国道を横切ると小学校の校門にはいる。  はいって正面右の学校の丘の上のグランドに上がり,そのグランドの右端をすすみ,  裏門らしき門柱のあるゲートから下り,また車道にでると右にはしる。  これが正規の由緒ただしい西国街道だ。街道がすこし昇り始めて小山をまく手前の路地を左にはいる。  突き当たりに八幡神社の境内。こんな説明しかねる街道を走るかというと,小学校のある丘が岬で,  いまの旧道も国道も海の上にあったってことの確認みたいなものだ。  吉和の集落は尾道の市街地とは接してはいなかった。  神社境内は合祀されている神様がそれぞれの方向をむいて,また沢山おられる。  ここで広島の白神さんを見つけた時,はじめてのことですっかりよろこんでしまった。  神社の正面の石段をおりると小さな広場になる。  そばの人家の壁にに魚を持った地蔵さんが埋め込まれて,  いまも使用中の井戸のポンプは色が塗りなおされている。  広場の西に平屋のお堂がたくさんの石仏にかこまれて陽射しを縁側にうけていた。  その西に墓所がびっしりの墓石でうまっている。  広場から東に数本の路地が肩幅で伸びている。二階建ての人家は路地からのぞきこまれるのも気にしてない。  空に洗濯物がひらひら泳いでいる。バンコクの港町をもってきたのだとおもった。  「尾道の西の吉和は魚浦としてちいさな民家の密集していたところだが,  近頃は漁港のすぐそばにすばらしくりっぱなコンクリートの  高層アパートができて漁民はそこに住むことになった。  そしてやがてこの人たちも海の生活をやめるようになるであろうと思われる。  宮本常一,1969年」  集落の路地をすこし回ると恵比寿神社にでる。そこまで海であった。  漂流物を神様としたエビスも路地奧でほこりまみれになっていた。  また尾道市街地にむかう。今の旧道から国道をとおてJR駅前にはいる。  東にむかう商店街にリヤカーに名物のでべらを乗せて売っている行商のおばさんにであう。  「吉和の漁民が旧正月前後の冬の間,手釣りでつりあげたカレイをわら縄にとうし,  船上で海風の夜霜にあて,潮風にさらして乾燥させたものが風味がよいとされ,  家船のやり方によってはじめて可能になった。羽原又吉・漂海民」  JR駅前の波止場から向島への渡船にのる。福本渡船と呼ばれている。  この渡船の向島の桟橋のすぐ東の小山が小歌島城の址村上水軍の居城だったという。  向島ではよく歌島とかかれたものにであう。  島の東に歌という地名もある。ここに和泉式部の伝・墓所の寺もある。  歌島とは優雅な名ではある。水路にそって南下する。  国道の信号は真っ直ぐにはいって突き当たりを左,すこしもどるようだ。  古道の雰囲気のちょうど二つ目の三叉路を右に。  丘ぞいに古道を走ると神宮寺。トイレ休憩にはもってこいのお寺。  でてすぐに右にはいって古道をたどると池の瑞をはしる。  自動車道のトンネルをぬけてお地蔵さんをみながら集落の路地をぬける。  すぐに吉原家住宅のかんばん。  山手に森がみえおおきな藁屋根がみえる。島一番の大百姓の民家。  改修工事もおわっている。  さきほどの道にもどって,島の古い集落をはしる古道は金毘羅さんや  お稲荷さんの祠を配置しながら下りにかかる。  県道にでてすぐに横切りちいさな川ぞいに古道をくだってゆくと小学校から砂浜にでる。  海岸の県道を左に走る。  二つの岬ののぼりをこすと立花の集落に入る。  この集落の路地は浜へ規則正しく方形に区分されて,山の方向へ上がる。  集落が山と浜,アゲとハマになっている。郵便局がアゲの中央にあるから,ここが中心部であったのだろう。  車道を浜にくだるとすぐに左へ丘越えの道へはいる。この峠のトップに小さな三叉路があって, それを左にはいると妙見宮の参道になっている。  ここに大きな岩が御神体になっているようで,神社としては古いのだろう。  合祀されている祠に無数といっていいお稲荷さんの置物があって,不思議だ。  峠をくだると,廃墟になった民家がつらなる集落で海岸にでる。  次の岬をまわるとしまなみ海道サイクリングロードの入口にであう。  ここから因島大橋を渡ると因島周回コースとなる。  走りの余裕がある人は渡ってみることになる。  が,尾道にかえって,おいしい食事を・・なんて考えるポイントになる。  まず向島の古道をまわって帰るコースをいってみましょう。  因島大橋入口にはいらず,  そのまま急坂をのぼって西瀬戸自動車道をくぐるトンネルをすぎて下ると池が右手にある。 ここから右の古道をとる。  山際のお寺をすぎて県道にでる前に右の丘にむかってとると五鳥神社がある。 イチョウが落葉するころはみごとなジュウタンになっている。  県道をこえて川沿いにくだって五叉路を右のゆるやかなのぼりの古道にはいる。 ふたつの池の瑞をとると新しい車道にでて左にくだってゆく。  県道との交差点はそのまま渡り,山際の古道を海にむかってゆく。  NHKの放送施設から左にはいる。  がこのまま尾道海峡にある灯台までいきつくのも。夕陽の時間はおすすめ。  もどって放送施設から西にはしると岬に二つの神社がある。  小さな峠をこえると海岸にでて,南に走り県道を左にとると先ほどの交差点。  すぐに左の旧道を走ると丘の上に荒神さんがある。  神社の裏におもしろい小路がある。  ここをくだって造船所の裏の水路にそってゆき,また海岸にむかってゆく。  岬をまわると池の中に神社があって海物園址とある。  「入浜塩田をつくるには膨大な経費がかかる。  ・・力あるものが築きたて(塩田造成)に投資するようになる。  力あるものとは,・・町人か,またはそうとうな武士であったものが,  戦いに敗れて帰農したようなものが多かった。  ・・向島の富浜は広島の豪商・天満屋が拓き,同島干浜は島の庄屋が拓いている。  そのほか尾道の商人も塩浜築たてをおこない,  この島には多くの塩田が出現したのである。宮本常一」  この富浜は西,中,東とあって福本渡船のつく桟橋までがこの天満屋の塩田になる。  海物園址からすぐに左にはいって造船所の裏を走ると  中学校の校庭の南を抜けて渡船への道にでる。  渡船桟橋にむかわなくて,右すぐに左を走ると日立造船の裏にある厳島神社にでる。  「塩田が急速に増えると,当然塩の値は落ちてくる。  塩の値を維持するにはどうしたらよいかと  備後の塩業者たちが高崎(竹原)にあつまって協議した。  その結果操業短縮の春冬は浜を休むことにした。これが成功して,  毎年2月8日にあつまって始業・終業の期間をきめることにした。  塩田業者はいずれも厳島神社をまつっているために,  大寄りといって厳島へ参ってそこで親睦会をすることになった。  ・・40年もつづけたころ,播州や灘,月ノ浦も参加するようになり,大同盟ができた。  これにより塩の価格はいちじるしく調整せられることになった。宮本常一」  因島を周回するコースに。  因島大橋を渡ると右の白い灯台がみえる。  大浜崎灯台はそばに潮流信号所があって,これは記念館として残されている。  「この大浜崎に近く,大浜の幸崎城址があって,  古墳十ヶ所があり,あわせて千人塚と称する。  ・・この古墳に千人塚と名がついたのはここに田島と百島の村上水軍が  襲来して多数の戦死者を葬ったからである。」  「むかし漁師が一人の僧に四国で,  どこでもよいから舟の着いたところにおろしてほしい,とたのまれ, いまは大浜の灯台のある浜に降ろした。  僧は礼をいって上陸したのを,見るとはなしに振り返ると一人の僧のはずが,  みるみる増え八十八人の僧となった。  この話が島に伝わり,島四国として因島遍路八十八ヶ所の霊場を明治41年に整備された。」  と因島のパンフレットにある。  この大浜の集落の沖にある八重子島は大潮の際陸続きになって潮干狩りができる。  この島でカラスにお団子をそなえるお鳥喰神事オトリバミがおこなわれる。  集落は広い車道に平行に路地があって静かで,不思議な舞台になった場所とはおもえない。  次の岬に島遍路ののぼりがある。  むかしの往還かもしれない。車道は中庄にはいるが,すぐの海岸にのびる車道を左にとる。  海にむかって埋め立てられた中をゆくと小さな橋を渡る。  外浦の集落。ここに本因坊秀策ってカンバンがあってにぎやか。  江戸時代の囲碁の天才がここまで記憶にのこるのは・・?。  道は海岸線のアップダウンをとってつぎの集落の鏡浦をすぎ,椋浦につく。  おおきな常夜燈が目印。ここから集落の中央をぬける古道に。  「船について因島全島のまとまった史料としては芸藩通志しかない。  これによると島の南東側の椋浦に1500石から1600石積の船があり,  三庄村に1200石積の船がある。  これにつぐものとしては外浦,鏡浦,土生村の数百石でありそれらは  漁船・農船のみとは考えられない大きさの船であり,  ・・ここに列記した村々には海運業に従事する船のあったことは明らかである。  これは椋浦の本陣をつとめた石井家にある記録でも  かなり広範囲に活躍していたありさまを知ることができる。  ・・またここには西側の田熊からやますそ伝いに,船頭・加子が通ってきた船方道もある。  家船民俗緊急調査報告・1970広島県教育委員会」  集落の古道をすこし入ると古井戸,古墓と路傍に。すぐに艮神社・ウシトラにつく。  厳島神社と同じ紋章の神社は狛犬に船中安全と刻まれて,海人たちの航海安全祈願。  そばの祠も石仏にかこまれている。  ウシトラは鬼門も方角ってことで,この風は千石舟には歓迎されなかったようだ。  尾道の千光寺へのロープウエーの下にこの同じ艮神社があって,また尾道の東端にもある。  どちらも古い神社だときく。向島の南東の大町にもある。  廻船業にとってのだいじなお宮だったのだろうか。  ここ椋浦の神社には椋の木の大木があって,あたらしく植樹もされている。  航海する人たちも去ったこの集落には椋の木が  おおきくそだってくれるってことが願いなのだろうか。 石井家もすでに取り壊されてしまっている。  神社から古道をつめると,周囲はミカンの畑にかわる。  この浦に千軒ということがあったというが,  海岸からもうひとつ古道が平行してはしっていたり,  ミカン畑の石垣が田んぼにはむいてないように思えるから,  人家があったのかもしれない。  教育委員会の立て札がこの奧,小早川家の墓地とあってミカン畑の  ちいさなあぜ道をつめるとちいさな墓石を積み重ねた墓がある。  このそばに早春にはしろい梅が満開となる。  寺院でもあったのだろうか?道は急坂のつづらおりになって高度をあげてゆく。  振り返ると幅広い入江にミカンの緑にうずもれた集落の上に椋の木だけが背伸びしている。  秘境って言葉がうかんだ。  峠のトップにちいさな展望台があって,すぐ下に水軍ラインとなずけられた車道に合流する。  すぐに白い標柱に船頭道とある。斜面の茂みの顔をつっこむと踏み跡がみれる。  あぜ道のはばしかない古道は鉄橋やコンクリート舗装などあって,近年まで生きていたのじゃ?。  でも今は草がかぶってきているが,判別できる。  すぐにミカン畑のあぜ道にかわって,巾一間になると,  山腹を平行にのびて大きなお寺と集落の道になっている。  これをすすむとまたお寺にであう。  ここにはりこ地蔵とよばれる御札をはりつけて丸くなっている御神体がある。  東南アジアの寺院では金箔をはりつける。おもしろい!。  お寺の前から下りに入り車道にでる。すぐに道左の旧道の入口をさがしてここを下る。  集落の中の古道を右にとって集落の中をぬける。  海岸にでて岬に向かう車道が神社前から左に。  造船所の構内かといった道が登りにかかって,おおきな車道を岬の先端に。  小さな駐車場とトイレがある。その横から海岸に下る舗道に自転車をおいて入ってみる。 このお地蔵様の由来は現地にしっかり表示してある。  海岸にならんだ小さな石仏は壮観。いまに隆盛なお地蔵信仰って,  その参拝の心を図ってしまう。自分にはどこか距離があるようだ。  岬めぐりのコースを走る。この岬の南側は,車も少なく車幅も細くて, ・・坂があるよな。岬が終ると家並みに入り,尾根を右にとると五柱神社。  後ろの弓削島を背景とした本殿は,入口に小石を積み上げた古墳があって,  上代の人たちの時間がただよっている。  きた道を帰って家並みに下る小道をとると浜にでて,ちいさなトンネルをぬける。  海岸の車道を走って弓削島へのフェリーの乗場が表示してある集落にはいって,  右への集落の中への道をとる。  おおきく左に上って峠を越えると日立造船所が眼下にひろがっている。  海岸の車道でも同じところにでるが,  集落にはいって正面にそびえる岩山の松のあり景色が浮世絵みたいで気に入ってしまってる。  造船所の高い塀がきれると土生の町。すぐに右にみえる旧道に。  「島で母達と別れると,私は磯づたいに男の村の方へ行った。  一円で買った菓子折りを大切にかかえて因島の樋のように細い町並みを抜けると, 一月の寒く冷たい青い海が漠々と果てもなく広がっていた  ・・・牛二匹。腐れた藁屋根。レモンの丘。チャボが花のように群れた庭。 一月の太陽は,こんなところにも霧のような美しい光芒を散らしていた。  ・・林扶美子・放浪記」  樋のような,まさしく細い路地は多くがシャッターを下ろした店舗だけど,  まだまだキョロキョロさせてくれる。  細い町並みを抜けると大きな新しい車道にでる。  信号の三叉路を右にはいってすぐに左の旧道にはいる。 道なりにはしって海岸への路地に。  防波堤にかこまれた船着場に,漁船が繋留された箱崎になる。  「この地にのこった寛永の地詰帳をみると,箱崎は実にせまいところであった。  背後はすぐ山になっていたが,  下にはかなりの砂浜がひろがっていた。  その砂浜を利用して9枚の塩浜があり,いわゆる上ゲ浜であったと思われる。  ・・この塩浜を五郎右衛門,久右衛門,清吉,正右衛門,半三郎,与兵衛,孫右衛門がもっていた。  清吉は屋敷がわからず,他の6人も箱崎に住んでいなかった。  ・・それでは箱崎には家はなかったかというと,  山すそに三軒の高持百姓と隠居所の二軒・・があり,砂浜には畑もひらいていた。  塩浜は家族労働にたよっていたであろう,・・ところが18世紀の初頭から  ・・効率の悪い上ガ浜塩田は整理されるようになり,  ・・箱崎の塩浜もおそらくその頃廃止になり,  その塩浜あとへ人々が家を建てて住むようになったのだと思われる。  ・・今も町を歩いて見ると旧塩浜の地割がうかがわれる。  いま道になっているところが一枚一枚の塩浜の境であった。  そして道によって九つに区切られた浜床に,いまは家がびっしりと建っている。  多分そのはじめは塩浜稼ぎの手伝いをしつつ,  小漁にしたがっていた人々であったと思う。  ・・箱崎のすぐ沖は愛媛県になる。・・目の前の海に漁業権がないとなるから,  遠い自由な海にでていかざるをえなくなる。  家船がこの浦に発達したのはそうしたことに原因があったのではなかろうか。  宮本常一」  この波止場に恵比須神社がある。筥崎・ハコザキとおなじ音で博多の神社を思ってしまう。 波止場から集落に入る道をとり,山への登りにはいる。  神社よこから上り詰めると寺院にでる。ここを左にはいる。  古道は100m置きほどに路傍に石仏をおいている。 左への下りをとらずに上り詰める。  トンエルをぬけると,展望がひろがってミカンの畑の中を水平に,  眼下に西瀬戸自動車道の高架をみおろしながらはしってゆく。  ここに一本の柿木があって,  秋にはまだ収穫されないミカンの黄色に赤い実の独立木は印象がふかかった。  道は車道がトンネルになった上で分岐する。どちらも中庄町へとくだってゆく。  右の道をくだる。  古道はいったん車道にでるがすぐに古道の入口がある。  ここには大きな古い,もう崩れるかという民家がならんでいる。  楽しいのは夕刻民家の庭木にすっごい数のすずめがかえってくるのを見られる。  瀬戸内の島々は今も小鳥達が多くみられるが,  すずめの御宿ってものを見たのは初めての経験だった。  うるさいなんてここに人たちは言わないようだ。  一度車道にでるがまた古道にはいると,お寺の山門前に大きな石像がある。  仁王像になるのだろうか?  谷に入る車道を左につめると尾根に水軍城をつくった金蓮寺にはいる。 観光化されていて,どうもって感想になった。  「因島には村上という海賊の家があった。  村上氏がこの島に根をおろしたのは15世紀のはじめころではないかと思う。  ・・村上氏が因島を根拠にしていたのは17世紀のはじめまでであり,  それから山口・防府に下って毛利氏の御船手組に属し,明治にいたった。  したがって因島にいた期間よりも山口県にいた期間の方が長い。  ・・海賊は一般の武士とちがって住民との結びつきなど  きわめて弱いものであったと思われる。  だから因島でも村上氏のことをほとんど忘れていたし,  村上氏も因島のことは忘れていた。  それを山口県長府にすんでいた村上昌輔氏が,  金蓮寺が菩提寺であることを知って祖先の墓に参拝してから古文書の寄進などがあり,  この寺が村上氏の古跡として脚光をあびるようになってきたのである。宮本常一」  「寺の境内左手奧に山の斜面におびただしい村上氏の墓石がある。  ・・ここの墓石群はもとからここにあったのではなく,  ・・豊臣秀吉の四国征伐によって住み慣れた祖父の土地を追われた村上水軍の武士たちは,  祖先の墓をこの狭い谷間へ夜の間にこっそり運び込んだ。  水軍のつわもの達が,墓を背にして夜道をころげながら,  この谷にしのびこむさまは,・・こけこけ参る金蓮寺といまに伝承されている。  ・・・この寺は1449年村上氏によって建立されたが,  豊臣秀吉の海賊追放にあって寺運がかたむき,江戸時代に入って廃寺となった。  それを1790年に再興された。  明治45年になって村上氏歴代の奧城という石碑が住民によって建立されている」  いまもどの墓が誰のものかはわからないという。  古道を金蓮寺をでて小山を回るようにはしり,  車道にでてまた谷にはいり小さな峠越えから西瀬戸自動車道の下のトンネルをぬけ。  車道にでて旧道へ左にとる。また車道にでてこれを横切って古道にはいる。  ここから重井の集落になる。  フラワーセンターへの道標にしたがって右へとりそのまま車道を走ってゆく。  「除虫菊は国内消費ばかりでなく輸出品としても重要であったが・・  戦中戦後食糧増産のために栽培面積がしだいに減少し,  さらに化学薬品がこれにかわるようになっていよいよおとろえ・・。  この草は5月に真っ白な花をつける。その花が丘陵をおおう。  すこし高いところにたって起伏する丘陵を見ると,  白い花と麦のみどりがいりまじって実に美しい。  また船で海をゆくとき,青い海の上の島をおおう白い花はこの上なく清潔に見えた。  宮本常一」  いまもこのフラワーセンターですこし栽培されているようだ。  古風をなつかしむ風情がこの島にはたくさんあるようだ。  このセンターも県立から変わるようだ。  下るとしまなみ海道サイクリングロードに入っている。  因島大橋はすぐそこに。 サイクルフォーラム 土井小七郎  2004/9/23 サイクルフォーラムWEBサイト(http://www.cyclesforum.net/)掲載