「今から1800年前頃,邪馬台国が魏に朝貢として生口を贈っていました。その生口が駐在していた島であったといわれています。せとだ観光ガイドブック・瀬戸田町商工会」生口とは奴隷のことだ。「景初2年6月倭の女王,太夫難升米・ナシミを遣わし,男生口4人,女生口6人,布二匹二丈を天子に奉る。魏志倭人伝」 「日本書紀雄略23年の条によると,征新羅将軍・吉備臣尾代が500人の蝦夷を率いていたが,その蝦夷たちが広島県か山口県の海岸と推定される娑婆水門・サバで反乱をおこし,最後は丹波国・浦掛水門(久美浜)でやっと鎮圧された記録がある。・・西日本各地での蝦夷系の人たちの存在は,ごく稀な居住者という立場ではなくて,吉備臣尾代の率いた例にもみられるように,相当な集団だったろうと推定される。森浩一。」 島の名の由来が,かなりアブナイって名だという説もある生口島を周回する。 コースは集落の中をうねうねと走るが,それはこの島のミカンの畑のとても印象深い緑が織り成す模様に仕上げられている。 小さな丘からの海もミカンの緑と対比して,オレンジ色の夕陽が海とミカンの葉とに映るさまは発見だとおもっている。 生口という上代の奴隷たちの痕跡はあろうはずもない。が,島南海岸に荻という地名がのこっている。蝦夷征伐で有名な坂上田村磨の一門の荻雄儀の居住地ということも8世紀なかごろのことだけど,わかっており,あながち突拍子もないってことでもないようだ。 「応神天皇,・・針間国神崎郡瓦村東の岡の上に至る。時に青菜の葉岡辺の川より流る。天皇,まさに川上に人あるべしと詔り給う。 よりて佐伯直を遣わして往きて問わしむ。すなわち答えていはく。 おのれらこれ日本武尊,東夷を平げしとき,とらえられし蝦夷の後なり。針間,阿芸,阿波,讃岐,伊予などの国に散じやらる。 居地によりて氏を為すなりと。佐伯直,状をもって復奏す。 天皇詔り給いていはく,汝よろしく君となりてこれを治むべしと。姓氏録」 「いまの兵庫県尼崎市の東北部あたり,摂津国為奈郷にいた,異俗人・アダシクニビト,三十許口・ミソタリバカリありを安芸国沼田郡沼田郷に仁徳紀38年に移したと記されている。《和名抄》には安芸国に佐伯郡を記載しているが《地名辞典》によると沼田・ヌタの佐伯部がさらに西に移されてつくられたものであろう。谷川健一」 「厳島神社の1164年の古文書に安芸国造は佐伯とあるから,安芸国造の佐伯直は佐伯郡すなわち蝦夷の集団を管理する役目であるから,・・谷川健一」 いまも沼田川はヌタ川で,広島市安佐北区に沼田がある。佐伯とはサエギルだとも。 その沼田川の河口からすぐにこの島がある。 瀬戸田には三原からの高速艇(自転車こみ870円)と須波からのフェリー(自転車こみ560円)がある。駐車場が無料で便利なのは須波になる。JRでは三原駅からすぐ港につく。 「船が瀬戸田の港に入る前,松の茂った丘の上に古風な三重塔がみえる。それがこの港に情趣をそえる。 この塔は1432年に造営されたもので,・・港の人々の合力によった。・・さいわい塔は兵火にもかからず, 風雪にも耐えて今日までつたわり,この港の美しい景観となっている。宮本常一」 塔のある丘は幾つかの上り口があって,それに石仏がならんで立っている。松林の明るい山道の仏様たちにぜひあってほしい。 瀬戸田港からの耕三寺への参道のなかに郵便局がある。 「郵便局長の黒田治六という人は,・・非常に進歩的な人で島民の生活をたかめるためには新しい産業をおこさねばならぬと考え,日本人が米をつぶしてつくった日本酒を飲むのは食糧不足を来たして不合理であると考え,西欧風にぶどう酒をつくれば,米はつぶさなくてすみ,新しい産業も盛んにすることができるとして,生口島を中心にしてひろくぶどうの栽培をすすめ,大日本ブドウ酒製造鰍烽ツくったが,技術が未熟で失敗に終ってしまった。 しかしブドウ園は方々にのこり,竹原付近のものはその名残であるという。明治10年代の話である。宮本常一」 「郵便局近くに堀田調右衛門という家がある。いまも昔のままのおもかげをとどめた古風な家である。・・瀬戸田には20ヘクタールをこえる塩田がある。 堀田家はおおきな塩田経営者のひとりである。・・塩浜経営以前は帆船を持ち,また酒造業を営んでいた。 それが幕末から明治初年にかけて塩田をひらき,瀬戸田は塩田の町として活気をおびてくる。・・堀田家なども千石舟を八隻ももち北前方面に活躍し,塩田を持ってからは自家の塩を北海道方面まではこんだ。 塩の上荷としてサツマイモをはこんだ。・・新潟以北ではサツマイモをつくらなかった。そこでサツマイモはすこぶる高値に売ることができた。生口島付近の島々はよいイモをだした。宮本常一」 平山美術館の側の車道を南下し突き当たりを左にとって小山をまわると厳島神社がある。この側をとおって左に古道にはいってゆく。谷にむかってはしって左に山際をまわる。 すぐに古道は右にのびて,車道のひとつ内側の道をつめる。ここに急にサイクリングロードがあらわれたりする。集落の中をすすみとまた谷にはいってゆく。そのまま小川の流れにそって登ってゆく。小さな池をすぎると車道にでる。ここは左に車道をくだって,すぐ右への旧道をはしる。 山腹までひらかれたミカンの森のような畑の端を集落の古道がめぐっている。道は右の丘への急坂と海岸への分岐にでる。丘にあがると道が地道になって左にみえる池へとくだってすぐに右の古道に。 ここまでは集落の古い家並みをぬうようにはしってみた。角の祠や石仏がおられ,神社も古風できれいだ。民家も新しい物も瓦屋根で景色にしずんでこころよい。 集落の抜けると車道に。ここを右への登りにとりつく。おおきな溜池をすぎるとすこしでトップに。 ここから車幅はひろくなる。生口島の因島市になっている。 1554年に生口南庄が因島の村上氏へ割譲されている。ほかは小早川氏の領地。こんな因縁なんだろうか? 「生口島でおもむきのあるのは南海岸である。いまは海岸にバス通りもできて便利になったが,昔はろくに道らしい道はなかった。そして磯づたいにあるくところが多かった。それだけに北海岸との往来はそれほど多くなかった。 だから昭和30年ごろの町村合併のときは海をへだてた対岸の因島とのほうが交渉がふかいからと因島市へ合併してしまった。宮本常一」 下り終えると海岸の車道にでる。右にはしってすぐに正面に旧道がみえる。ここにはいる。西瀬戸自動車道の生口島のインターもそばにあるが,ここから対岸の因島へはいまもフェリーだときいた。民家はとりどりのプレハブで新しいという印象。庭先に草木の花が季節ごとにかわるような,都市郊外の住宅地だ。 走りやすいちいさな起伏の連続も約2キロでまた海岸の車道においだされる。瀬戸田港からの車道の交差点のすぐ次の右への旧道を詰める と御寺と地名にもなった光明坊の山門につく。 いつも庭にミカン箱にいっぱいのみかんが置いてあり,”ご自由にどうぞ!”と張り紙されている。お寺はだいたいに戸がしまっているが,ここは開け放して鎌倉時代といわれる本尊がわらっておられる。 「このお寺は平安時代に建てられたお寺で,法然上人が四国へ流されたときやってきたという伝説をもつ。・・法然の弟子であった如念尼がこの寺におり,法然が讃岐に流されたときにここにまねいたのだといわれるが,これを傍証する資料は今日のこってはいない。宮本常一」 「法然が没した1212年弟子の源智が滋賀県信楽の玉桂寺に阿弥陀如来像を作ったが,その修理1979年のさい,仏像の胎内から勧請した人たちの交名を記録した文書が発見され,その中にエソと書いた中に370名の男女の名があった。・・森浩一」 この寺は古代,蝦夷の管理の場所であった・・と想像できなくもない。 「なにぶん古い寺であるから,そこにあるもすべてのものが古い歴史をもっている。・・ではどうしてこの寺が記録など失って しまったものであろうか。それについては一切不明である。いずれにしても不思議な寺である。宮本常一」 寺前の車道途中,最初の三叉路を左にはいいてゆく。御寺のすぐ後ろは正林寺,宝地と平安時代建立という御寺の周囲に寺院の地名がおおい。僧坊がたくさんあったことだとそばのおじいさんにきいたことがある。 ここから西にのびる古道は小さな祠をならべて,ちょうど海が俯瞰できる高さにそそぐ明るさと舞台装置が,ここは瀬戸内ですよーといっている。 「このあたりの民家の前にもささやかだが心のゆきとどいた庭のある家が少なくない。決してごたごたしていない。 しかし木や石のさりげない配置が実に美しいのである。宮本常一」 「南海岸をあるいてみると,いたるところに小さな塩田の跡がある。・・これらは百姓が自力でひらいたものである。 ・・塩田を持つようになれば出稼ぎしなくてもすむが,山が海にせまるところ,ややゆるやかな裾野をひらいて畑にしたような所では男が十分に働くほどの余地もないからたいていは出稼ぎにでた。・・海を埋め立てるのを開作という。そこへ埋立のための土をはこぶ船を土船・ドフネとか泥船といった。そのような船が南海岸には明治の初期300〜400艘ぐらいあったろうといわれる。・・工事があればどこえでも出稼ぎにでかけた。宮本常一」 シトラスパークの手前も車道から海岸にむかう。ここが荻の集落になる。オギと読む。エゾをあらわすテキではない。 車道が海岸にでて右,自動車道のインター入口をすぐて岬をすぎると,古道にないる。ミカンの畑のなかの作業堂のようだが,古地図にも記載がある。多々羅大橋のたもとで橋をくぐり,また車道にでる。すぐに山に入る車道に上る。道なりにはしって山からおりてくる古道にはいる。ここの二股は左に山際をはずさないようにのぼってゆく。一面のミカンの畑をみる。古道がまた大きな車道にでる。谷からあがってくる車道との交差点をすこし下ってすぐに右に。次の二股を右にはいると小高い丘にひろがる集落のなかの道をくだる。車道を横切って集落にはいる。ここが福田になる。 「生口島は江戸時代の中ごろから盛んに綿をつくってくるようになる。しかし土地がやせているので多くの肥料を必要とした。ところが沖でテグリ網をひいている能地の家船たちは糞尿をすべて海にたれながしにしている。もったいないことだと考えて 農民たちは海岸に小屋をたて,そこへ定住させるようにした。瀬戸田の福田浦はこうして発達してくるのである。瀬戸田には別に町の北端に魚浦がある。これも古くからのものであるが一本釣を主業としている。この浦は町に南側の福田から 餌を入手することによってさらに安定した生産をあげることになってくる。宮本常一」 この浜にちいさな祠が高根大橋を背景にある。ここにマス屋というお金持ちの庭に切っても切ってもはえてくるソテツがあった。おおきくなりすぎるので切ろうとしても切れないので焼ききった。そうするとしろいヘビがでてきて海ににげていった。それからこのマス屋はつぶれてしまった。そこで村人が白玉明神としてここに祭った。 たまごをお供えすると,翌朝カラだけになっているそうだ。 入り組んだ町並みはうろうろし甲斐がある。 ここから海岸沿いに高根大橋の下をにくて車道がまわりながら橋へとむかう。この海岸に海の中にお地蔵様がある。亀の首とよばれる。橋を渡ると高根島にはいる。 「瀬戸田をへだててすぐ西に高根島・コウネジマがある。・・鹿が多くて耕作には適さなかったそうである。いまでも島の南側や西側にシシ垣がのこっている。・・ここには幕末の頃まで,まだ北の谷には鹿がいた。そこで容易にひらくことができず終戦後から開墾された。宮本常一」 橋をくだって左に。集落をぬけての分岐を登りにとる。トンネルをぬける二つ目の分岐を左にとって海岸にでる。この浜から海岸をまわって橋にかえるが,浜の南端から登りにとってミカンの畑の中を走るのもよい。緑こい道になる。 橋をわたると瀬戸田港か沢の港へ。