しまなみ海道の島々の古道を走る/しまなみ海道(広島・愛媛) コース3詳細ページ
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 リポート  「大三島周回」 
大三島
島民と大山祇神社の結びつきが祭礼団的なものでなかったと想像せられる。そういう点からすればこの神社は公家勢力,
後には武家勢力にむすびついて社勢を維持しなければならない要素をたぶんに持っていた。それだけに島の農民たちは
神社にたよることも少なく,また武力もたいしてもたず,生産一本に生きたものが多かったと見られる。そうした農民たちにとって,
一番おそれられたのは,島外の者の海からの襲撃であった。そのため住民はできるだけ海岸をさけ,山麓に居住を定めたと
いわれる。とくに安芸と伊予の勢力の最前線にあったこの島では,甘崎をのぞいては海岸集落をもっていない。
これにたいして海を対象として生きる人々は海岸にすんだ。その上層部は海賊衆とよばれたが,下層部は多く漁業に従っていた。
甘崎はその一つであり,その歴史はきわめて古い。そして村上氏もここの海人たちを配下にして居城を定めたのである。しかし,
この勢力も村上氏の島からの退転,さらに1600年村上武吉が伊予松前の加藤氏の居城を攻撃して失敗した三津浜の合戦にも
その配下として出陣し,離散したものも少なくなかったと思われる。こうしてこの島の海人部落も古いおもかげを失ってしまうのである。
こうしてこの島の漁業集落は早くほとんど壊滅し。江戸時代にいたって瀬戸と宮浦に小数の三原・能地漁民の来住があったが,それら
漁民の大した発展もなく,ほとんど漁業をもたない島に転じていった。
ただ早く上層漁民の中から廻船商人に転じた人々があった。それらは古い海人の後と見られる宗方,野々江に多い。しかし集落
そのものには魚村的な色彩はほとんどなくなっている。こうしてその初めは海人の定住を主体としたと見られる島も,漁民的な性格を
ほとんどとどめないまでの変化をみた。宮本常一。



大三島を周回すると約60kmになる。一日コースで各集落を訪れるって旅がいい。三原・須波の港からフェリーに乗って盛の港に。
乗場から正面にまっすぐ上がる集落への道を上るとお寺にでる。この島一番古いお寺だそうだ。お寺横の小山の墓地はそんな歴史
がつまっている。寺門からすぐに左に入る。新しい車道を左。すぐに右へのすこし登りの旧道がみえる。そこに。ミカン畑を掻き分ける
ように,二つの溜池をやりすごすとおおきく右に道がのびて峠の切り開きにでる。ここから井口の集落。

井口
集落を抜けると四つ角。酒屋の自販機がならんでいる。大山祇神社へのサイクリングロードを横切って旧道を直進。すぐに右への細い
のぼりにはいる。軽四やっとの幅の道をのぼると正面に六角形の建物。多々羅温泉。ここの駐車場はいつも空いてるから車でのスタート
はここが良い。火曜日休業だけどこの海岸におおきな体育施設ができていて,ここにも温泉がある。が水曜日が休館。

甘崎
温泉横をのぼって高速道路の下をくぐりおえると左に。すぐに水場の集落にはいる。ここの小川ぞいに上ってみると,泉水の石柱がある。
そばの小屋に水槽が満々と水を蓄えている。水場という地名がよーくわかる。が,このミズバという言葉は神さまにつながるという。

日本書紀に筑紫の水沼君・ミズヌマノキミが登場する。この水沼君は筑紫の豪族であったと考えられるが,その斎き祭る神は宗像神で
あったとも記されている。宗像はいうまでもなく古代の海人豪族である。したがって,彼らがミヌマ・ミツハすなわち水底に住む蛇神の女神
を奉斎していたと考えるのはきわめて自然である。谷川健一・古代海人の世界。

こんな引用をするかというと,この集落の中の丘に沖合いの古城島を対峙する寺があって,その奧の丘におおきなクスの木を
正面においた神社があって,この二つの空間に,なにか?がいるようだからだ。寺には大きな井戸が掘り込んである。神社は
瀬戸内の集落ごとにある八幡社となっているが,そのたたずまいと,本殿のまだ奧にある祠とはそんな感慨にひきこませる。
古城島に最初に砦が築かれたのは7世紀,朝鮮半島での唐との戦争に敗北したあとといわれて,その後その主をかえながら,
村上氏を最後として砦としての役目をおえている。古代からの瀬戸内の航路がここにあったということなのだろう。

神社からでて次の三叉路を山にはいる。けっこうな登りはいきなり集落にはいってゆく。大原。
こんな高い所にこれだけの集落がなぜあるのか?とおもってしまう。遥か下に高速道路が走っている。集落西端のお寺のよこから,
海岸線にくだって車道の横にある旧道をたどると,大きな神社にでる。

瀬戸
この神社前の道を山側にはいって二本目の新しい道をすこし上るとお寺の境内にはいっている。ここの西の墓所の階段を上り詰めると
お堂がある。階段入口の案内がある芋地蔵だ。墓所をぬけると路地が交錯する集落にはいっている。瀬戸という。込み合った古い家並み
がいまも息ずいている。集落の中の祠の幟に明治○○年とあったり,ちいさな屋根がかけられた古い水槽があったり,と興味深々になって
しまった。

宗方
集落の古道を山麓につめて走ると高速道路の下に行き着く。この峠をこえてすぐに右の旧道をくだると海岸の車道に合流する。ほとんど
人家もない海岸線を走ることになる。防波堤のある坂の集落からあたらしく開通したトンネルをぬけて海岸よりすこし高い所に続く車道の
アップダウンをすぎると,真っ直ぐにくだりだす。ここの下り始めに右への旧道をみつける。
高巻きにつけられた道はそのまま宗方の集落にはいっている。集落に入る手前にある墓地の墓標は何代とみな入っている。
これは初めてだった。

瀬戸の集落は家々は均等なおおきさで,ここ宗方はそれはごっつい豪邸がならんでいる。でも屋根がくずれだしたり,と維持は大変だろう。
ただここがただものでないってわかる。
集落の南端,楠木にかこまれた八幡神社ではいまも管絃祭がおこなわれるという。おばあさん宮島さんとこの神社を呼んでいた。

集落の西端から峠をぬけると,すぐに海岸への下りの細い道にはいる。この道がまた登って車道に合流したらまたすぐに左の岬を
まわるルートがいい。

浦戸
岬めぐりから神社をみて海岸にくだってまた車道にはいる。浦戸という。車道を東にすすむ。口総・クチスボにはいる手前の学校を
ぬけそばに見える池にいってみよう。池の真中にちいさな島に祠がある。そばに石段と鳥居。ちょうどさきほどの岬の神社と対峙した
形にある。なにか訳有り?ここから海にむかって走る。海沿いのそれこそなんにもない海岸は集落が二つ。ここにも人は住んでる。
周り終えるとおおきな干潟の横を南に,まっすぐに。干潟にはいつもたくさんの鳥たちがあるいている。

野々江
集落は野々江。集落中央から左へ。郵便局の前をぬけて,神社をみてでた車道を左にとって一気に大山祇神社へ。
途中川をわたるとこの川をさかのぼるとおおきなダムにでて,さらに登ると深山から尾根をぬけるととおってきた大原にでる。
またダムの手前でまっすぐなのぼりをあがると大きな滝・入日の滝。

この神社は元は瀬戸の集落から伯方大橋へ鼻繰瀬戸をまわる道の左にあるくすの木にかこまれた横殿の宮にあった。
祭られる大山積のかみさまは九州・鹿児島の阿田の古代の鵜飼たちの守護神であったようだ。横殿からこの宮浦にうつされ,
その際伊豆三島神社を勧請した摂津の三島神社から勧請し,伊豆の三島神社が今の三島市にうつされ大山積の神を祭ったことから,
ともいわれる。伊豆三島神社が最初に祭られた伊豆半島の白浜は,そのとき沖に伊豆諸島の噴火がはじまり,御島が出現したことから
だという。後に富士山に大山積の神様の次女・コノハナサクヤヒメをまつり,三島神社に大山積の神がまつられた。それが摂津に
勧請されて,この島にまた勧請されたという時期におおきな地震があったようだ。天地沸く地震をおそれる気分があったのか?と,
鹿児島の桜島をおもいだした。そののち,伊予の河野氏の信仰から武運の神様になっていったようで,河野氏は元寇
の際際立った働きだったという。

最後にこの地を訪れたのは昭和35年夏であったと思う。この神社に参るものはめっきり減ったと,神社のまえの宿では話していたが,
いまはまた訪れる人もふえてきつつあるようである。島の東に生口島があり,そこの耕三寺にまいった人たちのうち,大三島へ渡る人が
次第にふえてきたのである。耕三寺の参拝者は100万人を越えるという。宮本常一。

しまなみ海道の開通後の賑わいも,今また元にもどったときく。

大見・肥海
神社から明日・アケビの集落に北進して,海岸にでるとサイクリングロードがある。そのをたどる。そのまま大見の集落につく。
ここの中央の車道をあがって一番奥の突き当たりから左にはしる。みかん畑と集落との境をぬけ下ると車道にでる。
少年自然の家のあたらしい建物をみて肥海・ヒカイの集落に入る。農家が細い通路を格子におきながら,その角ごとに柿木がある。
路地を山際につめる。軒先をかすめて墓地をぬけると神社に。そこから海へとくだる。この集落は懐かしさがあるようだ。
大三島を思い出すとこの集落になる。訳わからんが。

車道を横切って田んぼの中の道を海へと。数戸の家の間に山へとのぼる車道がある。これは岬めぐりのルート。海をへだてた本土の
景色をみながら,正面におおきな送電線を突っ立てた大久野島をみると海岸におりる。岬の付け根を越してきた車道と合流して山へと
入る分岐の三つ目。ここを登る。
ミカン畑に柿木が点在する農道は池の堰堤を下ると盛の集落にはいっている。


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