しまなみ海道の島々の古道を走る/しまなみ海道(広島・愛媛) コース4詳細ページ
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 伊予大島仔細コース地図を掲載しています。
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 リポート  「伊予大島周回」 
伊予大島

国は古事記・日本書紀の国生みの神話で、伊予の二名島という名前で出ている。
その土地の説明でこの島は身体が一つで面が四つ、そして四つの面に伊予、讃岐、阿波、土佐
と名をつけてある。現代人は、四国というのはこんな形だということを地図によって知っている。
が、古代人はそれを知るわけがない。海を航海していても身体がひとつで面が四つという地形
はわからない。
このことから考えると、お遍路さんの道が陸路で四国を一周しているが、それは空海の遺徳を
しのんでゆかりの地を歩くということでその道ができたのではなく、古事記や日本書紀ができる前、
つまり古墳時代頃にも、今日の遍路道のようなところを回る習慣とか経験とかがあったと
推定されている。事実空海が若いときに修行した所として、阿波の大滝嶽とか室戸岬とか、
今日有名になっている所がでてくるのだが、そんなことで、空海以前の四国がどのように
開けていたかということに究明になってくるのだろう。森 浩一。


四国遍路は17世紀に整備されたという。伊予大島の島遍路は1807年に整備されたという。
たしかに現在、地図は整備されて、簡単に入手できるが、それにしたがって路地をうろつくとなると、
なかなかむつかしい。
古代の人たちは、特別の方向感覚があったのだろう、とその訳を闇にほうむる以外ないだろう。
ぐるっと回るだけで四つの面を知るなど、その能力は想像もできない。
参拝の手引きには☆毎年旧暦の3月19,20,21日は縁日になる。☆縁日の初日は44番札所が起点。
☆納経帳は8,33,47,79札所で販売とある。
この縁日には宿舎がないほどと注意書きもある。チャリ遍路は縁日には遠慮しておくのがイイのかも。

伊予の国の高縄半島の東側、いまの今治を中心として小市国造(オチノミヤッコ)という集団がおおきな
勢力をもっていた。この小市国造は物部連と同じ祖とあって、越智と後世しるされる。鳥越憲三郎。



越智は越でもとはこの一字であった。オチは尾っぽのような細いものでチは土地の地になる。尾道はオの道。
この越智氏の話に越智守興の子、玉興が[常に唐舟ナドモ着ク]瀬戸内海の島で唐舟の主と問答した。
[我ハ唐土越ノ国ノ者也]といった話ではじまり、昔中国にわたったお父さん守興が越の国の女と愛し合って
生まれたのが私だということになり、[さてはわが弟なり]ということになって、越人に関係ある家柄だとして、
越智にしたという。越智守興については、百済をすくう戦いに敗れ、かの地に抑留された。その越智守興は
朝夕の食事でつかう土器を使い捨てにできず、唐土茶碗をつかうようになったとする伝承ものこっている。
このオチ(越)からは穀物の種とか製鉄や養蚕の技術など博物館には展示しにくい物や知識が伝わってきて、
日本文化に溶け込む傾向があるようだ。森浩一。


芸予諸島とよばれるしまなみ海道の島々には弥生時代の後半の遺跡がみられるが、この伊予大島の本庄
には八幡山を中心に弥生時代前期からの遺跡がつらなっているという。しまなみ海道の島々でもっとも古くからの
歴史が眠っているということになろうか。

島遍路道は、いま車道に分断されたりして、それをめぐるというには自転車では標識をみのがしてしまいがち。
でもすべての番所への標識が石柱や板やちいさな札であっても、ちゃんと残されていて、まるでオリエンテーリング
の競技の様子にはなってしまうが、パズルのようで面白い。特に番所が密集している本庄や津倉はこの遍路道が
つくられたそのままにあると、思えるほど古風だ。そうして、そこが弥生時代からの海岸線のように思えてしまう
自分がたのしかった。

コースガイドは上述したように、遍路道の標識が案内したくて、現地でまってますよ。

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