しまなみ海道の島々の古道を走る
因島
二十歳の頃,上京するカネを稼ぎたいために,尾道の自転車卸商ではたらいていたことがあった。
仕事は瀬戸内の島から島へ回って集金をすることだった。卸商だから,島の自転車屋に自転車を卸売りしている。その集金だ。
尾道から巡航船に乗って,因島に行く。昭和八年というときだから,まだフェリーというものはない。
焼玉エンジンの音をたて,船体をふるわせて港から港へ行く。わたしは自転車を持っているから,ペダルをふんで島を回る。
花崗岩土壌の道は,まぶしいほどにまっ白。除虫菊の白い花が,島の段々畑を覆いつくしていた。
段々畑は,天まで達するかのごとく頂上に至っていた。その畑のくの字に曲った細道を,農夫が,肥桶の天秤棒をしなわせて登っていた。
・・・家が破産して一家は一家はちりぢりになり,貧しくて希望もなく,鬱屈たる青春だった・・・。
島の白い道には,ほとんど人影がなかった。
それはわたしの救いだった。だれとも話したくなかった。だれにもわたしの心に触れさせたくはなかった。
瀬戸内海,あの美しい白い道はいまもあるのだろうか。新藤 兼人(脚本家)


生口島周回(瀬戸田)
 「今から1800年前頃,邪馬台国が魏に朝貢として生口を贈っていました。その生口が駐在していた島であったといわれていま
 す。せとだ観光ガイドブック・瀬戸田町商工会」 生口とは奴隷のことだ。「景初2年6月倭の女王,太夫難升米・ナシミを遣わし,
 男生口4人,女生口6人,布二匹二丈を天子に奉る。魏志倭人伝」
大三島周回
魚民の大した発展もなく,ほとんど漁業をもたない島に転じていった。
ただ早く上層漁民の中から廻船商人に転じた人々があった。それらは古い海人の後と見られる宗方,野々江に多い。しかし集落そのものには
魚村的な色彩はほとんどなくなっている。こうしての初めは海人の定住を主体としたと見られる島も,漁民的な性格をほとんどとどめないまでの変化をみた。宮本常一。
伊予大島周回
島遍路道をゆく
お遍路さんの道が陸路で四国を一周しているが、それは空海の遺徳をしのんでゆかりの地
を歩くということでその道ができたのではなく、古事記や日本書紀ができる前、つまり古墳時代頃にも、今日の遍
路道のようなところを回る習慣とか経験とかがあったと推定されている。森浩一
しまなみのシッポ/沼隈半島平家落人伝説
平家敗残の兵は、源氏の追っ手を逃れて各地に落ちていた。特に九州・四国から瀬戸内海筋に
それらの落人が隠れ住んだとされる隠里が多い。沖浦和光/瀬戸内の民俗誌より
沼隈半島の中央部、また鞆浦の西にこの落人伝説があります。
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しまなみ海道サイクリング/こまったら!バス、船へ、エスケープ
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□コース1 詳細ページ 尾道から向島をぬけて因島周回・漁師と船頭たち
□コース2 詳細ページ 生口島周回 生口・セイコウは古代奴隷ってことだった?
□コース3 詳細ページ 大三島周回 大きな海に囲まれていても・・
□コース4 詳細ページ 伊予大島周回  島遍路道をたどる
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