しまなみ海道の島々の古道を走る/しまなみ海道(しまなみのしっぽ・沼隈半島落人の軌跡)
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 沼隈半島コース仔細地図を掲載しています。
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 リポート  「伊予大島周回」 
しまなみのシッポ
こんな名をつけると沼隈の人に怒られるかもしれません。が上代瀬戸内で早く
から開けたのは伊予と吉備と阿波だといいます。ですから,神話を追っかけて
いるこのガイドではやはり伊予のシッポなんです。
その少し開発が遅れたこの地域の島々や沼隈半島は後に尾道,鞆と瀬戸内を
代表する港の航路となって行き交う船を見るようになったのでしょうが,開けるの
はすこし遅れたのかもしれません。辻ごとにある辻堂は江戸時代からの
ものだそうです。そのそばにある地神さんはどこも同じく自然石に地神と刻み
こまれて締め縄をまいています。同じということは開拓も同じ時代なんだろう
とおもえました。瀬戸内の島々で土地の神様は多様ですから。

高くはない丘陵がつづく半島は集落もその尾根に多くができて,尾根道がその
中をうねっている古道はここが開拓されだした時代そのままの様子で,細くて
交差する道もまた細いのです。そんな懐かしさを今に残してくれています。

スタートを松永に置いたのはここに運河があるからです。材木の集積地として
あったこの松永湾はすっかり埋め立てられて,海は遠くになっています。残った
運河はすっかり生活用水であふれてキレイとはいえないのです。ここが活気
があったように残せなかったことが残念とおもえる景色がつづいていて,町は
だからその昔のままなんです。

半島中央部は田園として開かれて,そこは熊野とよばれます。熊野とよばれる
地域はもっとも古くから開けたところといわれます。和歌山・紀の国,出雲に
も熊野があります。そこの熊野神社はそんな時間をもっているようです。

神社前から平家谷への登りをとり,落人伝説の集落にはいります。落人の村
といっても,いまは車道もはいって,家々はプレハブ造なんですが,それでも
この半島に多い藁屋根をブリキでおおった民家も沢山あって,その間に棚田
がひろがっています。

この集落から沢をつめると平家の宮と呼ばれる通盛神社があります。
神社の御幣はすべて真っ赤に染められています。平家の旗印の赤なんだそうです。
「平家谷は平越前守通盛の主従が落ちてきた地と言い伝えられている。・・
1192年創立と伝えられる通盛神社をはじめ,数々の遺跡・伝承が残され,鐙
峠・アブミトウゲ,刀岩,馬通し,弓場,的場など平家ゆかりの地名が周辺
に散在している。その通盛神社には,通盛の妻だった小宰相も祀られている。
この若い夫婦の愛情あふれる出会いと別れは平家物語でも一番人気ある語り
物だった。夫の戦死を知らされた小宰相は,愛する夫の子をみごもっていたが
,万が一にも帰ってきたら,と七日間待ってから,自ら海に身を投じて夫の
あとを追った。琵琶法師は涙ながらにそのくだりを語るのだが,聴衆も紅涙
を絞った。・・ところで通盛が戦死したのは一の谷の合戦であって,その悲報
が屋島に渡る舟の中で小宰相に知らされたのである。通盛は沼隈半島に来る
ことなく,それ以前に戦死していたのだ。瀬戸内の民俗誌・沖浦和光・岩波新書」とあります。
小宰相の墓も集落西の丘にあるお寺にあり,いかにもここでつくられた伝説
となるのですが,集落の中の径をまわってみると,小宰相はここにいた!と
いつか思えるから不思議でした。

神社から南の登りにかかります。距離はたいしたことはないのですが,なにせ
勾配がしっかりあります。西への展望がひらけて島々が浮かんでいます。

尾根を越すとグリーンラインと名づけられたドライブウエーに。ここは左にはいって
すぐまた左へ。花咲堂というロマンチックな集落から左に。大きなダム湖につくと,
堰堤をわたります。ここにあるお寺をぜひたづねてください。都を追われた足利将軍
の逗留地だそうです。古刹と呼べるような大きな寺院が湖畔に静かにたたずんでいますよ。
これをでて先ほどの花咲堂の分岐は引返してまっすぐ。ここの辻堂ってきれい
ですよ。またグリーンラインにでてその下のトンネルをくぐってつづらの折れ
る下りを鞆の浦に。

鞆は町の集落をめぐってください。鍛治屋さんや船具屋さんや,歴史がつまっ
ています。町中表示があって,またルート案内もあるようです。道もタイルが
張られてオシャレになりました。私にはなってしまいました,です。

鞆の西から隣の平浦へ。
「1932年に郡役所によって編集された沼隈郡誌には次のような口碑が紹介され
ている。平と原は慶長頃両村合して一村となり後地村と称し,鞆と風俗人情を
異にせり。伝説にゆう。元暦の頃,平家の残卒留まりし所を平といい,源氏の
廃兵残されたところを原という。・・元暦元年は源義経の奇襲によって屋島で
惨敗した1184年である。その翌年,平氏一族は壇ノ浦で滅亡した。瀬戸内の民俗誌」
集落はこみあってあって,平家伝説などの表示もない。ここから車道にあがってトンネル
をぬけて,すぐ左の旧道にはいって能登原にはいる。
「平家の水軍を統率していた平能登守教経は,屋島落ちの際に船で沼隈半島に
のがれたが,源氏の追撃軍に夜襲され,負傷兵を残したまま西海へ落ちてい
った。その地が能登守教経にちなんで能登原と呼ばれるようになった。瀬戸内の民俗誌」
この能登原には平家伝説は残っていない様子。海にでて海岸を南下して岬に
つきでた阿伏兎観音に。もどって海岸の車道を北上して常石へ。

常石造船の中央に尾道-百島-常石のフェリーと高速船の波止場がある。
また常石に入る手前の海岸から田島への橋もかかっている。
この船便をつかわずに北上して戸崎から向島の歌の港への渡船もある。向島
から尾道への渡船とひんぱんに往復しており,瀬戸内の情緒が少しあるかな?

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