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 太田川・100km/1000mUPステアツーリングコースプラン
ツーリングの計画の下準備です。


● 祇園

広島市内から太田川を遡る。支流の吉和の中津川を
たどると、島根県との県境に達する。県境のオサカエ峠まで、約100km。
瀬戸内海の海岸・広島市内(標高0m)からスタートすると
標高差約970m、まあ。えじゃん!標高差1000mにまけとく!!

 祇園 
 「祇園という地名があるところ、すなわち都市」
とは地名学なるものでいわれる。

夏祭りで京都の祇園祭りや博多の祇園山笠など、大規模なもので、
都市の祭りだろう。この太田川に祇園の地名がある。「都市」は
都・ミヤコ市・市場の結合したところだという。行政の長と市場の
合わさった機能をもつ場所になるのだろう。
太田川の祇園は、この「都市」として機能していた時代があったの
だろうか。

祇園の地名の元になった神社はいまは「安神社」となっている。
明治政府は、古事記・日本書紀の神社を正統だとおもったようで、
祇園信仰などの中世以後の神々は、その存在を問われ、地元では
さっそくに改名して、その理不尽な行政をやりすごした。
京都・祇園社ですら、八坂神社となったが、それ以外祭りも町も「祇園」。

大正14年の地図で廿日市と市場の地名がみえる。歌舞音曲と市場は
繋がった関係といわれる。祇園社(安神社)の東に胡神社があって、
その東に冬木神社が鎮座している。市場と胡は同体だし、冬木神社には、
神楽がある。

ただ、この太田川ぞい祇園の町が都市であったという、現状からわかる
「ナニカ」は見つけられなかった。
 
 祇園に市場が発生した歴史はこのことではないかと、おもえることがある。7世紀ごろ、朝廷は各地に租税をあつめる組織を配置した。
その集めるものにより、名称がつけられた。名産品を集めるってほどの
ことなんだろう。安芸の国では金属、鉄や銅や水銀・朱を調達しようとした
といわれる。
その組織は「部民」といわれ、太田川流域・古代山陽道周辺に、
佐伯部・大伴部・若狭部・伊福部が、山間部の八千代町周辺に
壬生部・品治部ホムチブ・丹比部。志道原には御使部がおかれた。
壬生は水銀、伊福が銅、品治が鉄ってことだろうか?壬生はいまも
地名でのこっている。品治・ホムチは本地として、表現が変わって
のこっている。
この山中から、山越えで租税の品が海岸へ運ばれ、いったん集められて、
そこから海路、都へ送られた。この集積地を倉敷とよぶ。
壬生から運ばれたものは、祇園の坪井・桑原へ、志道原からは帆立へ。
その倉敷としての、記録が残っている。


記録には安川が太田川に流れ込むところ・河合からすこしさかのぼった
場所に倉敷地があったとある。この安川は予想コースで、大正14年の地図から、土手が道なることが多いことと、河合に舟溜まりのような地形を
手がかりにしてみた。

 
 
昭和51年地図には坪井・帆立の地名が見える。
 
平成17年に地図では地名はバッサリ変更されている。
ナビゲーションの時代に郵便番号はいらない?
地名、元にもどしてください。
 倉敷があるところには、荷物が集められる機能・ここでは舟による運送が
あることから、市場が発生することはわかる。が、それが祇園になるって
こととは、結びつかない。

古代に土地を区分して租税をあつめることも始まった。中国の制度を
そのまま実施したようで、土地は方形に同じ広さに区分されて、それに
各々人々が配置されたようだという。

その土地の区分を条里制というが、この祇園もこの区分が残っている
のだそうで、基準線は元の祇園社の鎮座する場所でいまや大年神社
から北の阿武山山頂、東は太田川の対岸、小高い丘に鎮座する
狐瓜木神社とされ、同じ大きさに道が残っている。(赤の線)

が、雲石街道とよばれる幹線の道から東は旧太田川と安川の氾濫原で、
しわのように道が残っている。洪水に安定した場所と不安な土地とが
見とれる。(オレンジの線)

京都の祇園社は四条の河原町で、博多の櫛田神社も氾濫原にある。
不安定な土地は行政も区分できない。そのぶん、自由な空間がうまれる。
誰の土地でもない、神のおつくりになる新世界がそこにある。その
エネルギーが商業や芸能をうみだしてくる。その場所が祇園だ。
ここに倉敷が置かれたころ、壬生も志道原も厳島神社の神主であった
佐伯氏の支配化にあって、その氏神の安芸津彦神社がここにおかれた
ようだ。そこに京都の支店のように祇園社が鎮座する。この両者の対立も
記録に残っている。おもしろいところだが、自転車のコースには
関係ないか!
ただ祇園社は古くからあったのでは?と思うのは、戸坂の狐瓜木神社・
クルメギがあまりにも不思議な名で、ふと瓜木を反対の木瓜にすると、
ボケ。これはこれは祇園社の神紋のボケ。きゅうりの切り口といわれる
あのボケ。クルメギって祇園を逆さにした「狐」ってこと!笑えるね。
その祇園社が条里制の基点なんだそうだ。ちょっと、狐・・・

 
   
氾濫原が豪雨のあと、新しい土地を出現してくれて、そこに自由な生活が期待できることは、不安定であっても希望もありそうで、受け止められたのだろう。
たくさんの時間がそこに流れてきた。が、1607年ここにとんでもないことが発生した。
川が消えた。太田川がそれまでの流れをおおきく東へ移してしまった。
河口の広島城もだいなし。毛利氏がつくってまだ十年ちょっとのお城のあたらしい主の福島正則は修理に追われて、幕府への報告がおくれ、それを
問われて、信州に鞍替えの大事も発生した。川がなくなって不便になった倉敷は、とうぜんお払い箱だろう。あたらしい中継基地が新設されたようで、
壬生とか志道原のある高宮郡の飛地が江戸中期の地図にみられる。
お城も大変だろうが、それまで太田川の水をたよりにしてきた西原の人たちは、農業の用水を失ってしまった。それから160年後に、祇園の大工が
わずか27日で八木から長束までの西原の中央をながれる用水を完成した。快挙だったろう。その大工はその功績から、桑原卯之助という苗字をもらい
藩の生涯二人扶持という給金取りになり、各地の工事を請け負っている。地域ナンバーワンの土建業者になっている。この卯之助さんは代々、大工で
屋号を「鋳物師屋・イモジヤ」という。鋳物も大工もOKって感じ。この経歴に「祇園社」に所属した職人たちの匂いをかぐのはおかしいだろうか?
ここに「都市住人」を思うのだけど
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