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                              2010/4まで、営業していた自転車店です。                                     
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 太田川・100km/1000mUPステアツーリングコースプラン
ツーリングの計画の下準備です。


● 完全一貫開発

広島市内から太田川を遡る。支流の吉和の中津川を
たどると、島根県との県境に達する。県境のオサカエ峠まで、約100km。
瀬戸内海の海岸・広島市内(標高0m)からスタートすると
標高差約970m、まあ。えじゃん!標高差1000mにまけとく!!

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 川船 
  太田川の下流、中流、上流の区分は、下流が
南風・ハエをつかって航行出来る範囲で、可部の
河合まで。中流は船が上流に向かう場合に手助
けのトモノリ・船の後にのって櫂をこぐ人がいなく
ても、船頭が漕いでのぼれる範囲で、加計まで。
上流は手助けが必要なところだという。
 また太田川は大正8年に適用された河川法
(明治32年)によって、相生橋から、戸河内
須床橋までなんだそうだ。
 が今、放水路の完成で変わってるかもしれない。
上流も立岩ダム下流の須床まで、船が登って
いた時もあったという。

 
広島市郷土資料館・川舟より
太田川橋
 12世紀には、千代田から都へ租税が、まず
可部まで山越えで運ばれ、それから河合で
船 に乗せられ祇園のちには、新庄へと
運ばれている。 川舟の使用は丸木舟からの
ことで古い。
 巨木がなくなってきて、板による船の建造が
始まる。「古い型の船の底が平たいのは、水深
の浅いところを航行することが多かった。そして
日本の造船は、その始めは川のほとりではなか
ったかと思う。古く構造船を造った人々を猪名部
といった。猪名部の人たちは大阪の西で海へ
入る猪名川のほとりに住む人たちで・・」と、
宮本常一は書いている。この猪名川が、「佐伯」
について、ここから三原の沼田川へ移住した
蝦夷に人々の前の居住地だ。沼田川には舟木
の地名がのこる。呉の「呉」は船の材料の呉木
からの地名かもしれない。
 遣唐使船は、猪名川でも、呉の沖、倉橋でも
造られている。

 広島市郷土資料館・川船より
川漁用・サイリ

  太田川の川船の運送がピークになったのは明治かた大正初期までだそうだ。その間に船大工
は30軒程度であったという。
船の材料の木も、松から杉に代わっていった。加計の大工の佐々木は、耐久性から松材を
使っていたが、評判は良くなかったという。軽くしたのは坪野の久賀という大工だという。
この久賀は岩国の錦川の今津であたらしい技術を習ったという。杉は軽く、心配された耐久性
も松とかわらないという。ただ「ヤオイ」という不評もあった。(戸河内町の歴史)

 船大工は図面をかかないという。これは、鉄(クロモリ)で自転車のフレームをつくるビルダー
たちとも共通している。船に比べて構造が簡単で、いくつかのパターンをおさえれば、各々
の注文に図面を引かなくてもよい、こともあろうが、図面を引くことより、乗るひとの動きや、
希望する乗り味を生み出そうとしていたようだ。

写真の漁師のつかうサイリという船に立てられたサオを注目してみてください。

 「和船は竜骨をつかわず板をはぎ合わせてつくる。荒海の外洋の航行にはむかないが、川や
沿岸、内海で人や荷を運ぶのには、きわめて効率のいい船の作りかただ。そして、船を進める
には、艪やサオがてきしている。そしてサオはモノとしてはこの上なく単純なものだが、「サオは
三年、艪は三月」といわれるぐらい、それを使いこなすワザを身につけるのには、長い修練
を必要とする。・・・いったん習得してしまえば、あとは鼻歌まじりで、・・・からだに内臓された
記憶である{身体技法}によって、なかば自動的に作業がおこなわれる。単純なモノを人間の
ワザで複雑に使いこなす・・・モノとワザの関わり方、つまりハタラキが、日本の独特の・・」

 これは川田順造の分析だが、彼は「モノをヒトと馴染ませ人間化することで、単純このうえ
ない道具、この場合「サオ」からこの上ない精巧なハタラキを引き出す。それはモノを長い
修練によって人間化した、ヒトのハタラキである。と書く。この「ヒトのハタラキ」を引きだす
準備として道具が作られる。だから道具をつくることは、ヒトをつくることになる。ビルダー
たちの腕みせどころ。船大工は図面いらないってことなんだ。

こういった仕事の仕方は、よりよい結果を求めて、時間をかけ、人手をかけることをいとわなくなる。
が一方、今の仕事はそんな残業OK、企業戦士OKとはいかないようだ。
個人の巧みさにたよらず、誰がやってもおなじような、よい結果が得られるように、道具や装置を
工夫し、できるだけ人力を省き、人以外のエネルギーを利用して、よりおおきな結果を得ること
という、西洋的な仕組みが求められている。(川田順造)

{身体技法}を習得する余裕も与えられない。それがいまの「仕事」になっているのかな?
 自転車に乗ることは、人以外のエネルギーを使用する、わけにいかない。
自転車という道具を自分に馴染ませ自分の一部としてしまう。そんなウマイ、ヤツは
ウマイから落車しない、のだ。下り、速いのだ。ね。モノとヒトとの美しいハタラキ!

が、自転車、ヘタでも面白い、のはナゼ?

たまに、人力以外のエネルギーをいただくことがある。追い風だ。太田川では、暑い季節
に、海風・ハエ/南風がふく。午前10時ごろから吹き、午後3時ごろにピークがくる。
太田川沿いのツーリングで、午後からの下りがつらいって、ご経験がおありだろうが、中国山地
の脊梁部に早めの夕立があったら、いつの間にかフォローな風に乗る下りになることがある。
 戸河内の木こりたちの話(戸河内の歴史より)
T氏  明治23年生
 15歳で木挽きになり、21歳から杣になった。・・道具はノコは年に二丁、チョウノは年に一丁か、
2年に一丁のものであった。杣の仕事は70歳までやった。力はそんなにいるものではない。
(杣は木こりのこと、倒した木を板などに加工する部署が木挽きと呼ばれる)
S氏  明治24年生
 14歳から木挽きをはじめた。・・たいていの人は刃渡り二尺のマエビキを使ったが、自分は
身体が小さいので、一尺八寸のを使った。・・挽くときは手元かた力を入れてはだめで、力が
いるばかりである。力で挽くのだはない。刃の先の部分で挽くようにする。そのためにはまた、
ノコの刃の磨き方が大事で、刃の先端のすぐ内側をひっかかるようにしてヤスリで磨く。仕事
の前一時間、じっくり磨き、また仕事の途中でも時々磨くのである。・・人の倍の仕事をした。
 
完全一貫開発 
  可部から上流に向かうと左岸にレンガつくりの建物が
ある。 明治45年につくられた最初の発電所で、昭和
48年に廃止され、いまは漁協の事務所になっている。

 「城下町として広島が発達するにつれて、太田川の
果たす役割が俄然おおきくなってくる。江戸時代
初期1631年の調べによると広島には55の町があり、
戸数は5741軒にのぼった。
仮に一軒平均4人いたとしても、2万3千人余の人口が
いたことになる。それだけの人たちが日々の煮炊き
をするための薪炭の量について考えてみても、
おびただしい数字になる。
それらの多くは、太田川上流の村々から伐りだし、
広島へ送られた。家を普請するための材木も、
上流の山地が、多く供給した。(宮本常一)」

 この統計のすこし前の1628年に安芸藩は砂鉄の
採取のかんな流しを禁止している。城周辺の砂の
堆積に対処する処置であろうといわれるが、それから
幾度も禁止の令がだされていて、森を失った、針の
ようなといわれた流域の山々からの土砂の流失への
処置はなかったようだ。

 都市が木によるエネルギー依存の時代がすぎ、
電気にかわって、この川はあたらしく都市へ電気の
エネルギーを送り始める。
 
可部の町をすぎて太田川をさかのぼると、高瀬堰のひろびろとした水面がいきなり消えうせてしまう。
太田川の川船の活躍などといわれても、とっても想像できない。なにせ、水が少なく、消えてしまう場所
すら出現してくる。                                                   
 太田川の水力発電は、大正末期から昭和初期までの第一次世界大戦を機に海軍工廠およびその関連
施設の拡大によって、間野平、加計等の建設。次に第二次世界大戦直前に打梨、土居、下山、吉ケ瀬    
等が造られ、戦後の昭和30年代の高度成長期に、柴木川第1,2、滝山川、滝本、太田川が完成する。    
「太田川水系総合一貫計画」は上流の大きなダムであつめた水を、放水時に発電し、その放水した水と   
 その周辺の支流の水を合わせて、調整池で堰き止め、これをトンネルで下流の発電所へ流し発電し、再び
放流したところで調整池に留め、再びトンネルで下流の発電所へおくり、発電するシステムで、ロスする高度差
は2〜3mだといわれる。じつに緻密な設計になって、自然放流した状態を計算し、いまの流水量を当てはめると
加計で十分の一、飯室で十六分の一ほどしか流れていないとも言われる。                    
  ただアユの放流等の理由で夏季は、毎秒4.5トンが コントロールされて、流されている。                         

川に作られる調整池が川船の運航にとっては致命的になるが、可部から加計、戸河内へと道路が整備されて
船便が不振になってきたことも大きな理由であろうが、電力会社も、たとえば打梨発電所の建設の際に、保障
がおこなわれていたり、間野平発電所では、県知事から、船の航行の水路の保全義務および、水路の監視が
命令されている。                                                       

   
赤いラインが水導パイプライン、水色がダムと貯水池です 
 
太田川の流れは、まったくムダなく下流へ、発電に向かっている。自転車はこの逆を 登ることになる。
津伏貯水池・ダムが湯来への分岐点、正地貯水池・ダムが筒賀への分岐点のすこし上手、戸河内インター
そば。ここで約80kmの走行距離になる。ゆるやかな勾配で、河畔のすずしさもあって、ダメージは少ない
と思えるが、ここまで補給と補水をおこたりなく。できれは、天然塩をなにかの形にして携行されて、このあたり
から補給されると、ちがいます。                                            
戸河内から立岩ダムへの登りは広い谷間の走行で、意外といけるはず。でも、抑えて走ってください。
吉和に入るとけっこうな斜度が現れます。が、中津谷はちがった景観を用意してくれてます。       
 
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