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                              2010/4まで、営業していた自転車店です。                                     
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 太田川・100km/1000mUPステアツーリングコースプラン
ツーリングの計画の下準備です。


 ● 鉄山師・石工

広島市内から太田川を遡る。支流の吉和の中津川を
たどると、島根県との県境に達する。県境のオサカエ峠まで、約100km。
瀬戸内海の海岸・広島市内(標高0m)からスタートすると
標高差約970m、まあ。えじゃん!標高差1000mにまけとく!!

  太田川・100km/1000mUPステア トップページ広島市内へ
 砂鉄 
 日本で鉄を使用し始めたのは今から二千年もまえ、弥生時代と言われる頃からであったと思われるのは、そのころ
使用した木器が地中からでてくるのを見ると想像せられるのである。そしてその刃先が大変するどいものであった
ことは、ロクロを使用してつくっているもののあることで察せられる。なまくらでは木が充分になめらかにけずれない
のである。なまくらでないためには、鉄にマンガンが含まれていなければならない。マンガンは砂鉄の中に多く含ま
れている。どうも日本で用いた鉄材はこの砂鉄を精錬したものではなかったかという疑問がわく。つまり古くから
日本産の鉄が使用されていたように思われる。 
古代の鉄は朝鮮半島から持ち込まれたという通説がある。            
 砂鉄の精錬、それは古い日本においてもっとも進歩した産業であっただろう。そしてこの産業を中心にして山間に
高い文化が発達した。もとより精錬の技術は大陸から渡ってきたものであろうし、工人も大陸人が多かったと思われ
るが、その地方にのこる古墳などは、大和文化の伝統をうけつぐものであってみれば、住民の根幹をなすのは
やはり、ものからそこに住んでいた人々であったと思う。宮本常一/芸備山間の文化
                 
 加計船 
 広島・可部間は勾配もすくなく、潮の干満や南風を考慮すれば、安定した航路であったが、可部からの上流は曲がり
くねった流れに、急流が組み合わされ、増水期渇水期があり、水量の変化も大きい難しい航路であった。このため
この航路には「加計船」とよばれる川船が作り出された。船の先端・ミヨシはゆるやかで、船の底板から船幅が広く
荷も人も水面下にはいっているように見えた。積荷は平均的な船で10石、1500kgの掲載貨物の能力があったろうと
いわれる。ただ渇水期には500kgほど、増水期には2700kgにもなったという。速度を増水期に「ビク」平常時は
「ハブ」渇水は「舳海老/ジクエビ?」といったという。                                     
 可部から下流へいれる船を「可部船」といって、細めの高速走行タイプだといわれる。川船は各地でいろいろな形状
と呼び名があるようだ。そのなかで、「加計船」は岡山の高梁川に使われる船の呼び名でもある。一般的には  
「高瀬舟」とよばれるなかで、太田川とのつながりを感じる。                                 
 河川航路の補修工事  
 
高梁市のHPより

太田川の川舟の航路のメンテンンスは、洪水の
たびにおこなわれ、また通常も定期的におこな
われた。

上流では 細い航路が上下のゆきかいに二本
必要で、難所では開削がおこなわれた。

岡山の高梁川では、東大寺の再建に宗から
招かれた石工の伊一族の伊行経によって、
開削された岩にその完成を記念した記念文が
刻まれている。
今はダムに沈んでいる。

「加計船」と石工と、同じ砂鉄地帯の交流を感じる。
 製鉄は三つの作業から成る。砂鉄堀り、炭焼き、タタラ吹きがこれである。そしておおきな資本が存在しなければ
事業は困難であった。そうしたことから、この山中には自ら広い山野を持ち、たくさんの下人をもった長者が住み、
人の往来も多かった。宮本常一/芸備山間の文化 
 隅屋 
 広島の加計町に加計という家がある。もとは屋号を隅屋といい、久しく鉄山経営をしてきた家であった。この家は
古い落人の家であった。その家にのこるおびただしい古文書によって、この家の古さとかって大きな勢力を持って
いたことがわかるが、「国郡志御用に付下しらべ書」 によると、加計家はもと隠岐の守護佐々木氏の子孫だという。
佐々木氏は鎌倉の末までここに守護としていたが、元弘2年1332年後醍醐天皇は北条高時をほろぼそうとして兵を
おこし、かえって捕らえられて隠岐へ移されたときこれを監視警備したのである。ところが天皇はその翌年ひそかに
隠岐を脱出し、伯耆の名和長年をたよって船上山により、まもなく京都に還幸して帝位に復した。佐々木氏は当然
天皇の敵として守護の地位をうばわれ、元弘3年に佐々木富貴丸というものが、家臣二人にまもられて隠岐を逃れ
出雲にわたり、石見をへて山口にしばらく足をとめていたが、のち安芸に移り、加計村のうち香草、遅越、寺尾の地
をひらいて百姓になったという。そこに落ち着いて、この家は寺尾山で銀坑を掘り当て、銀を出していた。それが
この家の地位と経済を安定させたようであったが、坑内の出水がひどくて、一時廃坑になっていた。ところが、すこし
して横貫穴を掘って排水に成功し、また銀の採掘を始め、しばらくかなり盛んに銀を掘った。が、それもまた水が
出て、ついに止めなければならなくなった。                                          
 その前後ごろこの家は鉄山の経営を始めるのである。はじめは加計の本郷で営業していたが、寛文8年1668年、
戸河内村松原へ藩から所替を申し付けられた。本郷にいた職人たちもまたいっしょに松原にうつり、そこに住み
着いた。それ以来安芸北部から石見山中にかけて砂鉄採取をおこない、たたら二ヶ所、鍛冶屋11軒をもち、また
タタラ・鍛冶屋に勤める者の家489をたて、その家族2103人をかぞえる経営をおこなうにいたったのである。   
 こうした鉄山経営のほかに酒造をいとなみ、大阪への廻船2艘、川船18艘を所持していた。まれにみる大経営  
であったということができる。近世初期までは佐々木を称してきたが、近世にはいって隅屋を称した。       
 隅屋の運送 
 隅屋鉄山は、原料の砂鉄は石見の 井野村、後に
大坪、雲月などのカンナ場から脊梁山地を越え戸河内
のタタラ場まで、その道筋の農民によって縦送りに   
運ばれた。砂鉄運搬の駄賃稼ぎは安芸側では八幡原、
草安、南門原、刈屋形、奥原などの村に多かった。   
できあがった鉄は100kほどを馬につけて加計村の   
鉄蔵に運び、加計から太田川を船で広島まで下し、  
海路大阪に運ばれた。戸河内から加計までは戸河内 
の馬方が主として運んだ。そのほかタタラ場で使用  
する米、塩、粘土、などが運び込まれるので、戸河内  
には文政2年1819年には駄賃馬が267頭いた。     
隅屋は483頭を所有していた。              
 
鉄学の旅/中国新聞社刊 より
 松原から加計へのルートはいくつかある。牛馬道と
よばれていて、いまも残っている場所がある。だた、
森林が伐採されると、草の中に消えてしまう。それ
でも、地面を踏みつけると、硬い路面の感触が残
っていて、往来の激しさを感じる。          
 
小荷駄馬がなけりゃあ、ぜったいやっていかれんかった。そうよ、山の谷までいって、馬につけて、どこぃでも
自由にいけますけーの。馬車ぁ、まあ一台積んだ折にゃあ、小荷駄馬の何倍か積むゆうても。道がわるいけえ、
ここでおろし、あすこで降ろしでさあの。小荷駄馬ぁ、あの山のつじでも、このやまのつじでも、訪ねて荷つんで  
下り、その日につける。馬車の道のええ間ぁ、あしこもこちらも、やりよりましたが、雪の積むころになっちゃぁ、  
馬車の力もかなわん。そいじゃけえ、小荷駄馬がおらにゃぁ・・・              或る小荷駄馬の博労の話
  石工
 カンナ流しでの砂鉄の採取は、大量の水をため、それを
土砂といっきに流すという作業で、その際にいくつもの
流れをうける池がつくられる。その池の最終のところに、
石垣を築いておいて、土砂を受け、池が埋まると、それを
田に仕上げた。棚田はこのように造られる。この石垣を
組む職人が必要となる。                  
吉和村村史に「石を積むこたぁ、上殿。木を伐ったり、流し
たりするなぁ、戸河内。そんなふうに専門的」とある。
太田川関係のイベントで、伝統の石垣つくりに挑戦、
という企画があった。 木材を伐採して、川のそばに送って
、そこからいっきに川に流す作業と、カンナ流しと、そして
巨石を運んで、石垣や石造物をつくることは、よく似ている。
広島城や岩国錦帯橋の橋げたもこの工人たちによるという。
 
 自転車で走って、一番判るには古道、そして目立つのが
神社と鎮守の森、ゆっくり走ると、道端の石仏や石標識、
そして石垣。美しい石垣は、とても印象深くて、その土地
の深さみたいなものを感じる。

 戸河内のインターから展望できる上殿の段々になって
長く広がる石垣を覚えている方も多いだろう。

 
これは和歌山城の石垣です。ここまで
上殿からは行ってない?
 井伏鱒二の「石垣」から 
 私のいる村には石垣が多い。ことに私の住んでいる 家の付近には、ほとんど奇怪だとおもわれるほどたくさんの
石垣がある。ここは私の生まれ故郷だが、去年からここに疎開定住するようになって、今さらのように、そのことに
気づいた。どこの家でも石垣なしに敷地を区切っていない家はない。畑もみな石垣をひかへた段々畑である。水田
もみな石垣をひかえた棚田である。細い道も往還も左右に石垣をひかへ、谷川も溝川も両岸を石垣で工事されて
いる。川底さえも或る部分はいしだたみになっている。

・・橋のたもとのところで一人の老人が石垣の崩れをなおしていた。同じ部落の石工屋の隠居である。石をすわりの
いいように工夫しながら据えてみて、また向きを変えて据え直してみて、また向きを変えて据えなおしている。
「案外、骨の折れる仕事ですなぁ」と私が驚くと「いやぁどうも」と石工屋の隠居がいった。「石垣をとるにも、上手と
下手があるでしょう、どんなのが上手というのですか」とたずねると、「そりゃ、出来上がりが早くて、みる目に調子
よくて、頑丈に仕上げることですがな」と隠居は答えた。隠居の説明によると、「みる目に調子よい」石垣という
ものは、必ずしも石の表面を滑らかに削ってあるものとは限らない。また石と石との接触部分に隙間がないように
仕上げてあるものが調子がよいとはかぎらない。石垣は古ければ古いほど滋味があるが、どういうものか諸所
方々のお城の石垣には、滋味の感じられるものは割合いに少ないような気持ちがする。これは「みてくれ」がある
からかもわからない。たまたま見ず知らずの村に、・・出かけたとき、何ともいえない調子のよい石垣をみることが
ある。ひっそりとしているようで、朝霧にまだ濡れているようにも見え、いつかどこかでこの石垣はみたことがある
ような気持もする。じっくりとした風采の古めかしい石垣である。こういう石垣はほんの通りすがりにみるだけでも
、いつまでも忘れられないものだと、石工屋の隠居は言った。                               
  バカ石垣
村一番の巨大な石垣を造ったお屋敷があって、主人が
「石ひとつに米一俵の代金をかけて・・」といっていたが、
完成しないうちに家は滅びたという話を、井伏鱒二が
つづけている。これを「ばか石垣」と呼んでいる。

このバカ石垣仕様は これまでけっこうお目にかかってる。
すごいのは写真の、奥津和野の堀庭園の母屋の石垣。
蟻の入るすきまもない。けっこう気に入ってのだけど。

韓国・済州島の石垣は強風がくると、ゆれる設計だと聞く。
こわれないが、風も通させる。弱める石垣なんだそうだ。
これが「滋味」があるってことなんだろう。動いてるのを
見ると、かわいそうにおもえるから、違うかな。
 
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