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 太田川・100km/1000mUPステアツーリングコースプラン
ツーリングの計画の下準備です。


 ● 筏師・渡し場

広島市内から太田川を遡る。支流の吉和の中津川を
たどると、島根県との県境に達する。県境のオサカエ峠まで、約100km。
瀬戸内海の海岸・広島市内(標高0m)からスタートすると
標高差約970m、まあ。えじゃん!標高差1000mにまけとく!!

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 渡し場 
  渡し場とか渡船とかが、ここにあった、と聞くと川面を
覗き込む。とっくに消えてしまった光景をさがしている。
太田川の渡し場に橋がかかっている。渡し場が橋の
旧住所になる。「渡しの船は丸木や箱船がながく使わ
れていた。それは川漁に利用されたりするものであった
だろう。そうした人たちが渡守をするようになった。
百姓をするものはなく、川漁が上手であったり、客の
ないときは竹細工やわら細工などをして暮らしをたてて
いるものが多かった。しかもその技術に巧妙を
きわめたものが少なくなかったのは、伝統の古さを
うかがうに足りた。中部地方から九州にいたる間
渡守はほぼおなじような生活のたてかたしていた
のである。この人たちこそ、古くから川を生活の場
にしてきた仲間の名残ではなかろうか。宮本常一」

 今、鮎漁に夢中になって、川に浸かってる人、”仲間
の名残”が入ってますよ!ナンテ。
 
 
 筏師 
 源平の戦いの際焼かれた東大寺の再建が、重源というお坊さんに託される。彼らは、勧請という寄付をあつめ、
各地の寺院や橋を建設している建築の総合プロデューサーだ。大仏殿の柱になる木材は30mをこしてなければ
ならない。この木材は山口県佐波川上流の、滑官林とよばれた山中で発見され、切り出された。長さ最大39m
直径150cmなどという大木を一本に70名、20cm/15mの縄2本を巻きつけ曳く。佐波川の水量はすくない。
堰を118ヶ所、運搬路30kmの整備という大工事で、淀川を引き上げ木津川から車輪をつけ、牛120頭で奈良
へはこんだという。1186年のことだ。 これだけの大木が滑谷から石見・日原そして匹見、吉和、三段峡に林立
していたとある。
 吉和と匹見の県境に八郎川が入っている。この最深部に八郎杉という、この地だけの雪を受けにくい葉の巨木
杉の森があった。このあたりから明治になって、鉄道設置の枕木がはこばれている。全国へ出荷されていて、
横川の楠木のガンギで荷揚げされ鉄道で運ばれた。
   
  千両山を中心に八郎杉の植林がひろがっていて、
東斜面には巨木が匹見七村へぬける林道におおい
かぶさっている。この周辺から、木々が切り出され、
川を流された。

 
 立岩ダム周辺の地形図。これは西中国山地を30年もあるいて、谷と山の名称などをしらべた、桑原良敏氏の
「西中国山地・渓水社」からの転記です。広いあかるいダムサイトの走行は操作にいっぱいになりますが、
目の前の谷すべてに名称があるってこと、思い出してください。太田川は本流だけのことでなく、この谷とそこを
流れる渓流のことなんですから。
   
 伐採から筏流し 
 明治29年に加計・益田間の道路ができて、川船はすたれていった。が、それ以後も木材の運送は筏での運送が
つづけられて、電源開発によって、川がせき止められるまでつづいた。
 太田川を自転車で走ると、吉和に登ってから、中国脊梁の山中を走ることになる。県境へ向かう中津谷は、
うっそうとした杉の森のなかで、霧がながれるような、呼吸がいっきに広がるような経験ができる。のぼりの
酸素不足を森がおぎなってくれる場所だとおもっている。
  その谷で伐採し、その渓流へ材木を流した話。つらい登りに、ふと思い出して!君よりつらい仕事やってた人が
いるのです。と、でも楽にはならんね。
 
 山師が広島の材木問屋と話し合って、山の木を買う。そうしてまず、杣と木挽職人を現地へ。伐採と製材がおこなわれる。これを「さき山」という。製材された木材を曳いたり、押したり、車輪をつけたりで、川にいれる地点まで運ぶ。この二つの作業を合わせて「山出し」と呼ぶ。これは夏のうちにおこなう。
 秋の出水時や春の雪解けの増水時に、川へ木材を入れる。枕木は5千丁から3万丁だったという。水量がすくない場所には堰をつくって水を止め、たまると堰をいっきに解いて流す。これをくりかえして、戸河内の吉和郷まで送る。この浜の川上の打梨からは、電柱のような丸太へ一人で乗る。木材から落ちて、急流にひきこまれるのを「ズリコミ」といって浮かび上がれないこともあったという。 
   
 筏 
 浜で材木を筏に組む。それに乗って、川下へと流す。これな乗り継ぎがおこなわれて、戸河内から加計、筒賀からなら向光石。これはより安全であることと、川を良く知った地元の乗り手を選ぶということらしい。が、例外があったようで、「むかわ衆」という集団があった。むかわは向光石の名称で、この集団は卓越した筏のりで、太田川全域にその存在が知れ渡っていた。彼等はカイ一本で各浜を渡り歩き、どこの浜からも迎えられた。組子二人でのる筏も一人でのり、確実に届けることができたという。 
 川船と筏の雑話 
   戸河内と加計の間に、木坂の集落がある。ここは
集落のほとんどが川船に関係のあった。40軒
あまりの家の半数が川船のオーナーで、ほかも、
アトノリとよばれる艪をあやつる乗組員だったという。
集落ブラブラしてみましょうか。
川船では船頭はそのものずばり、船の頭・オモテに
乗る人で船を所有していることが多い。後でロでもって
推進する作業は、雇われた「アトノリ・トモノリ」といわ
れる。増水したとき、操縦の手助けでトモに乗ってロで操縦し、トモノリは後ろの右でトモガイを作業する。
「ムカエ」という人たちがある。船を陸から引上げる人
で、あらかじめ打ち合わせしておいて、早朝に船にでむく。この場所が野冠、追崎、澄合にあったという。ここから
加計までの作業で若い人たちの駄賃稼ぎだという。
たしかに、このあたりから勾配がかかるような? 
 
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