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石見の国

昔を想い出す事が
忘れていた今を
想い出す事ことであるような
そういう想い出し方が
ありそうな気がする。
            西郷信綱
美濃地
長野
・・坂口安吾・安吾史譚「柿本人麻呂」より
高角山の頂きに近づいたころ,夜が開け放たれた。木々の間に立って見下ろすと,自分らのイオリも見えた。女房の奴,泣いているか,ふ
て寝したか。石見の国の山々よ。荒海よ。その荒海にもモヤが立ち込め,今朝は波が静かであった。石見は彼の生まれた国ではな
かったが,彼等の祖先の国だった。
彼らの氏族を物部氏という。このあたりから起こって,畿内に進み,最初の日本の中原を定めたのは,彼ら,否,その祖先であった。そして
彼らの祖先が中原を定めて後,当分は泰平がうち続き,衣食住は貧しくとも,人々の日々の生活は平和で,たのしさや,よろこびのこもり
溢れたものであったと言われていた。中原を定めた彼らの祖先の王様はオオクニヌシであった。この王様は,民に働くよろこびと,お酒を
呑むよろこびと,男女が会合して唄ったり踊ったりするよろこびを教えてくれた。この王様自身がよく人々の面倒を見,よくお酒をのみ,よ
く愛し,よく眠った。当然結果として,彼はよくふとっていた。そして誰からも愛された。この王様の好まないのは。ケンカや戦争だった。そし
て彼も彼の民もケンカや戦争を忘れていた。なぜなら,そのころは敵がなかったからである。彼の直属の民は,主としてクダラから来た者
どもであった。


・・一方,石見が物部のふるさとではないという
柿本人麻呂の死去を唄ったうた「荒波により来る玉を枕に置き我ここにありと誰かつげなむ」の作者丹比真人は石見の国司であったらし
い。この血縁らしいとされているものに多治比連真国がいる。・・多治比真国は伊予から石見国に移住して周敷・スフ氏をとなえ,・・。

「谷川健一
・青銅の神の足跡」

愛媛県に周敷郡があって,今の今治市のある高縄半島の東部になる。島根県浜田市西に周布がある。今治の国司であった越智は越
智郡と名をのこしている。石見では邑智郡となったのだろうか。この越智氏は物部の一族で,物部氏と称するまえは越智氏であったと
もいう。周敷郡も物部氏のあったところという。
那賀郡の名も徳島県那賀郡とあり,この国、長・ナガ国司も物部氏という。美濃郡も香川県にいた三野物部氏がある。愛知県美濃国に三
野国司があり物部氏につらなる。これは「旧事本紀」にある物部氏記録の記載による。
この物部氏の記載と考古学の発掘による土器の分布から「
鳥越憲三郎・女王卑弥呼の国」で物部一族の痕跡をまとめられたものからの抜粋。

移動する人々はその故郷の名と神を背負ってあるくという。石見が物部氏のふるさとか,
いや四国や近畿から移動してきたのか?私には分かるわけない。


弥生時代といわれた時代,それが今につながっていることは歴史としては理解できるのだが,遠い昔話であって具体的な姿として感じるこ
とはなかった。風土記の丘公園にいっても、ピンとこない。
出雲風土記をあるいた江戸末期の紀行をたどるうちに,古事記・日本書紀の記載の出雲風土記とのずれを感じていた。記紀の神話は弥生
時代から古墳時代にその舞台をもうけているようだけど,その内容・神話は作り物のようで,もっとちがった事態があるのではないか?とは
おもうのだけど,そんな昔がわかるはずもないとあきらめていた。

出雲神話の島根半島めぐりを終えて,雲南地方とよばれる斐伊川をめぐる神話へスタートするとこにしていたのだけど,作り物の神話を
追いかけても,と腰がおもい。
そのころ,記紀の出雲神話の主人公スサノオがじつは石見から上陸していたという神話をきいた。神社と神坂という地名まである。出雲風
土記にも記紀にもない,神話。それを走る糧にして石見に。その一番走りたいスサノオ神話の舞台を一番後回しに。おいしい料理を最後に
しておこう。最初だとそのあとがさみしくなるかも?。石見の西端へスケジュールしてみた。
そんな石見を軽くみたスケジュールは最初旧山陰道がまったくもって普通の道路で,ヤハリ,か。と。
さて,どうするか?と,手にとった「日本の神々7山陰・谷川健一」に。そのなかに石見に渡来・降臨した神々はスサノオだけでなく,大田市の
物部神社,浜田市の伊甘神社,三瓶山の佐比売山神社,三隅町大麻山神社,益田市櫛代賀姫神社,などはどこからか神社を勧請した
のではなく神さま石見降臨の神話をもっている。

石見って神さまの渡来する国なんだ。と,おどろき,桃の木,ついでに柿木村。
石見は物部の,弥生時代を代表する部民たちのふるさとか?その神話を走っておいかけてみたい。
石見の国西端・美濃へ

石見西部への最初は高津川の水源になる泉水をおとづれた。田園地帯の平地にある泉水が河の源流になるという。そこの源流会館で
石見神楽のビデオをみることになった。神楽はクライマックスで神が降臨し人々に取りつく。時として命にかかわるという。これは強烈だった。

海岸に点々と神々が降臨し,中国山地奥深くでは,いまも神が降臨している。
石見で誕生し死去したと,きっと地元では信じられている柿本人麻呂。その柿本氏は
「遊ぶという言葉が,死者のたましいの復活を願う呪
術をも含んでいるとすれば,天岩戸の前で遊びをした天細女命・アメノウズメの後裔と称する猿女氏と,小野氏の同族である柿本氏も,こ
の遊ぶ,すなわち仮死状態にある死者の魂の復活を願う行為を媒介として,とうぜんつながってくる。柿本氏はしのびごとを歌の形でつくり
・・・
谷川健一/山本健吉

小野の地名は日本全国に見出され,・・その本願は近江の小野にあった。・・猿女氏は天細女命の子孫と伝えられ,本来小野氏とは無縁
であったにもかかわらず,小野氏の領地内に猿女氏の養田があったので,いつしか一族の中に吸収された。この小野氏と同族に和爾氏
があり柿本人麻呂も和爾氏の一族で・近江の荒都を過ぐる時・の歌は,ここへの往復の途上よんだのであろう
白洲正子・近江山河抄。
彼らは記紀の神話をもって語りあるいた人々だという。この語部をして石見神楽が出現した,・・とは,わからないけど,出雲風土記と記
紀の出雲神話とのギャップをうめた漂泊の人々だと,じゃないかと。記紀の神話と出雲風土記がすこしつながってきたようだ。

2006・8/2までアタックした石見西端のルートです。
益田市・比礼振山/佐比売山神社・オレンジコース
佐比売山は三瓶山の古名になります。出雲風土記で国引きの杭に大山となったという山です。この山麓に佐比売神社は八社あったと
いいます。この八社には泉があって、山麓開発の始まりを示しているといいます。その三瓶山から遠くはなれた益田市の東、益田川
そばに比礼振山があって、そこにも佐比売山神社があることを、発見しました。あったから、どうってことない。のですが、比礼振山がき
になります。
ソシモリ(韓国)にオオゲツヒメという五穀の神様がおられました。あるとく荒ぶる神様に切り殺され、その遺体から五穀の種がでてきまし
た。その神様の末子(石見で乙子という)のサヒメはこの五穀の種をもって赤い雁にまたがり、比礼振山にとまり、そのあと東へすすみ
三瓶山に来て種をまき、殖産につとめた。日本の神々7これだけでは、神様の降臨神話なんですが、ここに出て来る比礼が問題なんです。
[天つ神の御祖のミコトノリして、天つシルシの瑞宝ミズノタカラの十種・トクサを授く。オキツ鏡、ヘツ鏡、八握剣、生玉、シカエシ玉、タル
玉、ミチカエシ玉、蛇の比礼、蜂の比礼、品物・クサグサの比礼、これなり。天つ神の御祖の教えていわく。もし痛むところあらば、この十
宝をつかい、・・由良由良・ユラユラとふるへ、かくのごとく為さば、死人は返りて生きん。旧事本紀]
これが物部氏の祖先のウマシマジ命
のことばとつたえられるのです。
比礼は古事記ではオオクニヌシがスサノオからうける試練に蛇・蜂・百足の部屋にとじこめられるのですが、スセリヒメから比礼をもらって
、振って脱出します。比礼はスカーフのような布だといいます。幸せの黄色いハンカチのシーンをおもいだしました。健さんよかった!!
この比礼振山の北側に乙子という集落があって、神社にはこの集落からのぼります。その乙子の北に種という集落もあります。三瓶山
にも多根という集落があります。神社の参道中央を車道が山頂へとぬいているのですが、車道から神社を参拝するより、神社につく手
前に地道の山道があります。そこに入ると参道したにでました。苔むした石段とすこし傾いた鳥居は神秘的でした。
益田市・二つの柿本神社・紺色コース
柿本神社は益田には二つある。高津の柿本神社と戸田の柿本神社。高津は柿本人麻呂が亡くなった鴨嶋が地震で水没した
とき海岸にながれついた人麻呂像を祭ってある。戸田は人麻呂の生誕伝説のある場所。
人麻呂が死に際して歌った歌が万葉集にある。鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ。この鴨山が問題
になってるのだ。益田の柿本神社の高角山。江津市神村、浜田市のお城のあった亀山。島根県邑智郡湯抱。奈良県葛城連山。
などなど。
人麻呂は万葉集の最高の歌人といわれているようで、その終焉の地を特定することに興味をもつのも当たり前のようだけど、
今万葉集を読んだって記憶もなくなっている。人麻呂の終焉の地の問題を決着つける説が斉藤茂吉からでて、邑智郡湯抱温
泉と特定され、昭和28年に歌碑ができた。江戸時代から人麻呂は益田沖で死んだとおもっていた益田の人たちはおどろいた
だろう。その後昭和48年に梅原猛の水底の歌が出版され、鴨嶋地震水没説になり、また益田に終焉の地が、かえってきた。
注目された湯抱温泉が地盤沈下をしている。

柿本人麻呂を巡遊詩人とし、その地方を廻国してそして石見で客死したのだろう。という見方もある。それは小野氏という部族が琵
琶湖の湖畔にある小野和邇の地にあって、ここに柿本氏もいたことがわかっている。小野氏は猿神を祭り歌舞伝承に習熟してい
た猿女・サルメと深い親類関係を生じ、猿女小野氏とも称すべき一団が各地に移動殖民し、活発に布教宣伝に従事したといわれる。
[近江の西北に大古墳群がつづいている。・・小野氏がここに本拠をおいたことはいつごろかは、はっきりしないが、・・6世紀の終わ
りごろ小野妹子がいたことはたしかで、同族の和邇氏などもちかくに住んでいた・・柿本人麻呂も和邇の一族で・・。白洲正子][琵
琶湖の西側には小野氏の領地があり、小野氏はアメノウズメ命につながる語り部の家系であった。世阿弥は花伝書のなかで猿楽
の遠祖はアメノウズメ命にある、と書いているが、ウズメの子孫を猿女と呼ぶにはあ、間にいろいろ屈折はあったにしても、なにか
関係ありそうな気がする。猿という言葉は、物まね芸人をさげすんでいったかも知れないが、猿は日吉神社の使わしめであったこ
とも忘れてはなるまい。白洲正子]
日吉神社の神の使いが猿であるということだけど、日吉は昔はヒエと読んでいた。神社の西に
比叡山がつらなっている。

戸田の柿本神社は小野という集落にあった。
益田から柿本神社の横を流れる白上川を上る。途中白上という集落にでる。扇状地のように扇にひろがった中心に小山がありそこ
に八幡神社がある。家々は扇の端、山麓に一列にのびて神社の小山をまるくかこってあった。不思議な景観に引き込まれて一周。
川沿いの旧道をまわって、真新しいおおきな車道にでくわすと、交差して旧道が尾根にのぼっている。途中に大きな民家もみえる。
ちいさな立て札に健康コースとある。入ってみる。
尾根を越すと谷いっぱいに棚田がひろがっている。棚田百選の一つとある。その尾根にある集会所に打歌とカンバンがあった。読み
方も分からなかった。途中であったおじさんに尋ねてみると、柿本人麻呂の歌、石見野や打歌・ウツタの山の秋風に、とかにでてくる
山の名で、地図には大道山とある。と歌を朗々と歌われた。
ここを上り詰め、くだると正面に赤い鳥居がみえる。写真を撮るために立ち止まる。その道の反対側に墓があってその前に鳥居。人
麻呂が捨てられていたのを育てた夫婦の子孫でいまもこの戸田柿本神社の宮司さんの家がそのそば。これは鳥居の前にある石碑
に書いてあった。墓についてはふれてなかったように記憶している。
終焉と地は、もしかしたら益田でも混乱しているのか?
これも巡遊詩人たるところか?終焉の地論争も猿女のマジックにかかりつづけて千数百年ってことなんだろう。
神社をぬけて、田んぼの中直線に海へとでた。そこにある戸田JR駅の構内にも鳥居がつくられていた。ここにもマジックかかった時
空がひろがっている。集落の中の古道に海風がふきぬけてゆく。石見空港のすぐ海より持石海岸のJRの東の道そばに、きれいな
フランス料理のレストランがある。PM6:00から開店。コースのみ、お一人様3500円。益田の多田温泉経由仏メシって、いいじゃん!!
。猿女のマジックのようなお皿がならぶにちがいない。
櫛代賀姫命神社・クシロカヒメノミコト紺色コース
益田から9号線を北上するとすぐに海岸の港がすぐ下にみえる場所が木部・大浜。ここへ下り海岸の道を南へすこし下ると、
岩場と島の美しい景観をみることになります。ここへ天下った神様がいます。その場所に8世紀ごろから祭っていたものを石見
の国司(観察司)の藤原緒継という人が、夢をみて12世紀になって益田川の河口にうつし、その後の高波被害で益田川河口の
北の丘陵・久城にまつられたといいます。それが櫛代賀姫命神社です。
ここから40kmの益田市久代に櫛色神社があります。海浜公園の入口からすぐの旧道にあり、古代この海岸を開拓したクシロ
族の神様ときいています。藤原一族は浜田の伊甘から益田に本拠地をうつしていますから、浜田の櫛色神社がふるいのかな?
この櫛とつく神様に出雲・熊野神社の櫛御気野命・クシミケヌミコトがあり、出雲ではもっとも古い神様になるそうです。浜田の櫛色
神社の神様はクシロアメノコケツノミコトです。櫛は水田のアゼのうちこむ水路板をしめすともいいます。お米の神様だそうです。が、一
方クシロには釧という字をあてることもあります。古代に白銅製の腕輪を釧といい、鍛治の神様という側面も予想されています。
神社はこちらではめずらしく保育所が境内にあります。お寺が幼稚園って普通なこちらとちがって、シャキっとした子供たちになり
そうですね。神社は三方向に参道があって、いまは裏から参拝するのですが、苔むして草がしげった旧の参道にはいると、この
神社の歴史がうずもれているように感じました。久城の集落は家々が思い思いの方向にむいて、そこへの路地が迷路のよう。
東の参道から道にでて5ツ角を一番左へ走って、丘陵をくだり田んぼの中の神社をすぎて四つ角を左へ。住宅地の中の新しい
道をすすむと津田へはいります。
久城の丘陵のスクモ古墳からたくさんの古墳がならんでいる道です。そうして津田は、時間が凍結されて今暑い日ざしに陰をつ
くっているだけ、のような古い家並みの町です。とくに集落の北端の河口の旧庄屋屋敷や家並みにある造り酒屋の景色はどうし
てもクシロ族の子孫としか思えませんでした。庄屋屋敷からすぐ先の海にクシロカヒメミコトは降臨しています。
高津川、益田川の河口がまだ一つだった時代、ここに小野氏とその同族の柿本氏櫛代氏の集中した居住があったことがわかっ
ているのですが、1200~1300年も前、いやそのずーっと以前弥生時代といわれるころからの景観がこの短い道筋にあるようです。
私のお気に入りコースです。津田の家並みの中の神社にも保育園がありました。お昼ねしてました。

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