出雲風土記を幕末の風景にさがす
 古代出雲への旅
幕末の旅日記から原風景を読む
関 和彦著
中公新書1802
出雲を歩くと多くの神社に出会うことができる。
その数の多さに驚くとともに、社殿と森が一体化
し、清浄さに包まれて静かに息づく神社に心
をうたれる。そのような歴史環境、自然環境が
今なお残されているのは地域住民の働きかけ
もあるが、その根底には出雲風土記の存在が
あったからであろう。出雲風土記は今なお出雲
の地に生きているのである。(関 和彦)
の本は、慶応二年1866年に出雲・平田の商人、小村和四郎重義(1811-1886)56歳が出雲風土記(733完成)にある古社をたずねた旅日記を著者がたどった現代の旅日記になる。
その記述のルートを明治36年発行の当時の陸軍省の五万分の一の地図に推計してみた。

第1章から第7章まで島根半島と宍道湖をめぐる記述が掲載されている。

第7章 神々の勢溜り-出雲大社
平田から直江まで・第1日



1/200000縮尺
和四郎は平田の家をでて島村の浮洲大明神を訪れた。・・神社は斐伊川の氾濫で移転を余儀なくされてきたようである。境内はかっての氾濫で取り残された中島のように感じる。
・・斐伊川は古代以来、氾濫の歴史を繰り返してきた。現在のように斐伊川が東流して宍道湖に注ぐようになったのは近世からであるが、・・和四郎は江戸時代に開発された水田の中の広い畦道を宇夜の地へむかった。古代のおいてはこの道は宍道湖の中であった。あるく途中にも中ノ島、中洲、沖洲などかっての様子を物語る地名が続いた。古代宇夜の地は宇夜江と見えており、宍道湖の岸辺が丘陵の奥深くまで入り込んでいた入江であったことがわかる。
和四郎は宇夜谷の宇夜八幡宮(神代神社)に参拝した。ここは出雲風土記にみえる宇夜里後の健部郷・タケルベの故地である。
その日直江町の唐川屋弥平宅に泊まることにした。翌日は一日中雨天につき唐川屋に滞在、酒などご馳走が出され、七つごろコウジ屋六兵衛方に移り泊まることにした。


 直江から小山村へ・第2日

1/20000縮尺
翌日コウジ屋を出て、大津町来原岩樋から舟にのって高瀬川をくだり、大津の村へと出た。高瀬川は江戸の中期に大梶七兵衛が切り開いた水路で、大社の堀川まで延々と続く。川に浮かぶ高瀬舟は川幅に合わせて細長く、巾は六尺、長さは四丈ほどであった。当時の高瀬川は水運、農業用水、ときには飲み水などその利用は多方面に及んだという。今、出雲市域の町中を東西に流れる高瀬川は周囲の民家、木立と調和し、風情を醸し出し、われわれをひきつける。
・・和四郎は小山村に向かった。広がる水田のなかにこんもりとした小さな森が見える。小山村の大山社であろうか。出雲風土記の神社としては境内は狭く社殿も一間四方程度であり、祠といったほうが似合いそうである。
・・急に空が暗くなり、雨が降り出した。慌てた和四郎は神社の少し南の岡本喜三郎宅に飛び込んだ。
・・[まずは上がりて休息なされ]一時の雨宿りのつもりが、本格的になり止む様子もない。・・いつのまにか夕方になり喜三郎は鯛すしなどを出し、また酒もふるまい泊まるようにすすめた。
翌朝になっても雨はあがる気配もない。もう一日世話になることになった。おいしいご馳走もだされ、酒なども飲み時間は過ぎていった。
出雲風土記について尋ねてみた。 [ここ小山村は風土記の何れの郷に候うや] [ここは八野郷ともうす。この大山の宮の西より高浜の間の大沼を三木何某と申す人、元和のころに菱根、遥堪、江田、八島、入南あたりを田地にし、・・今にここを新田五箇所村という] [先年斐伊川、大雨に水溢れ出し、日下神社の前の出、そこよりまた西に行き常松あたりを流れ、雨止みて後は中野から荻原・高岡を経て八野、そして松枝に流れ候う] 和四郎はこれぞ出雲風土記時代の斐伊川の流れぞ、と思った。
翌朝は天気がよく、まずは八野郷の鎮守の八野神社を訪れた。岡本宅からほんのわずか半丁ほどであった。
周囲の環境からして境内は微高地の先端にあたり、古代においては斐伊川、神門川の二大河川にはさまれた河口に位置していたことがわかる。八野神社の裏手には斐伊川が流れ、その対岸には出雲大社への道が北山の弥山の麓を走っていたはずである。


和四郎の旅日記では直江からは高瀬川を舟をつかっている。
いまは舟もないから、江戸時代の山陰道を表示してみた。
こんな走りもいい。時がとまった空間があるものなんだ。

島根県教育委員会発行
[歴史の道・山陰道U]より

風土記時代の大社付近の神門水海の予想想像図だ。私のまったくの想像でもなく毎日新聞社の古代出雲を歩くも参考としている。出雲大社
のオオクニヌシの奥さんが九州・宗像神社の海の女神であることが理解できる。出雲大社は海辺の豊かな輝きのなかに建立され
ていることになる。すばらしい光景であったにちがいない。

 小山村から大社へ・第3日
和四郎は旅伏山の峰続きの主峰・弥山の麓に沿う杵築道を西へと進んだ。左手は一段低く水田がひろがる。ここは古代はここに神門水海が広がっていたのであろう。・・神門水海は斐伊川、神門川の水を溜め、日本海に通じる水門で海の水も受け入れていた。淡水・海水が手ごろに交流し、魚介にとって適切な住環境を形成していたのであろう。
・・道をすすむと和四郎の右手に崖を取り崩してできた狭い空間に神社が現れた。出雲風土記に見える久佐加神社である。久佐加は日下で出雲郡の豪族で郡司主政であった日下部臣一族にかかわる神社なのであろう。
両側に民家が点々とする道を過ぎ、神門谷という山間の道に入ると広大な境内に来成天王神社が鎮座している。・・参拝後門をくぐり階段をおりると前方の視野がおおきく開けた。眼前に斐伊川、遠くに神戸川が見え、和四郎は出雲の国を独り占めした感じにひたった。斐伊川が流れ出る谷口付近からは雲が上り、まさに自然が八雲立つ出雲を演じていた。
・・遥堪に、むかった。・・真ん中に深い川をもつ比較的広い阿式谷にでた。この一帯における最大の扇状地である。川には上流から土石流で押し流された大きな石がゴロゴロしている。・・立派な大社造の本殿が迎えた。阿須伎神社である。本殿の左うしろの高まりには御神木が息を潜めるようにそびえている。静かな境内に川瀬の音が響くのがうれしい。
出雲風土記によれば阿受伎社(阿須伎社)は39社もあったことがわかる。しかし、和四郎が訪れた慶応2年の時点でも多くは不明であった。
・・阿受伎社から大社への道は次々と神社が顔をだす[神の回廊]である。しばし歩くと右手の階段の上に菱根稲荷神社があった。神社前の道に湧水があるが、かって江戸初期の寛永のころまでは[神門水海]のなごりである菱根池があったところである。
右手に修理免村の出雲井神社への小道が分かれる。・・出雲井神社の祭神は塞ノ神の岐神(クナドノカミ)とされており、・・ここが出雲大社への入口、境界なのであろう。
左手の水田は見えなくなり、両側とも民家が続くようになった。左手の民家を縫うように曲がる道に入った。民家をぬけると畦道のになり、杵築川を木橋で渡ると乙見神社が姿をみせた。社殿の周りは砂地のようであり、かっては砂丘であったことがわかる。
・・再び杵築道をとった。小さな小川を渡ると右手民家の間に黒くぬった垣根に囲まれた真名井の清水が神聖な水をたたえている。・・道はゆるやかに曲がり正面に出雲の森が姿を見せ始める。右手の細い道を上がると、命主神社である。後ろ、また右手から森がせまり狭い空間に立つ社殿は大きくみえる。
・・和四郎は境内の左手からの横道に入り、民家の横をぬけ、・・出雲の森に出た。石垣の基檀中央に椋の木がそびえ、四方を木囲いした祭場である。・・ここに神が影向・ヨウコウするという。・・かって出雲の森のすぐ東を吉野川が流れていた。出雲の森は水辺の祭祀場であった。
・・・・大社を参拝した和四郎は祓橋から南へと参道をすすんだ。右から流れる小さな小川で石橋を渡ると鳥居があり、参道はゆるく登るようにうなった。さらに素ガ川を渡ると前方に大鳥居が見え始める。
大鳥居の前方は広い空き地からなる勢溜りである。鳥居の右横には奉納相撲の土俵が設けられ左手には神官の屋敷が立ち並び、斜めに神光寺に向かう馬場道が見える。正面には常設の芝居小屋が行く手を遮るように建っている。・・現在の大鳥居横の変形の曲がり角はその名残である。慶応二年の時点ではまだ勢溜りから一直線に南下する神門通りは完全には整備されていなかったと思われる。
・・和四郎は勢溜りから四つ角にむかった。民家、旅館などがつづく。道の左側は急な斜面がつづく。・・道路脇の左手に越峠荒神神社(コエド)がある。その先が四つ角である。・・不思議な変形の四つ角である。三叉路が二つ連続し微妙な広場を生み出している。和四郎はその四つ角の岩井屋林三郎宅に宿をとった。

□走るコースリポートMENUページへ